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筆者の畑で、小麦が順調に発芽し、育っている。
麦は初挑戦なので結果は分からないが、もちろん無肥料です。
(だから「育てている」のではなく、「育っている」のです (^_^v)
畑の一角には、どこから種子が来たのか、3年ほど前から白ユリが咲く。
毎年勝手に、見事な花を咲かせるのだ。
今までさほど気にも留めず、何もしないのに、今年は10本近くに増えた。
(不耕起・無肥料・少除草・無散水のホッタラカシですよ、念のため…)
冬が近づくと、花が枯れた後に、タネがいっぱい入った袋ができる。
そこで今年は別の場所に一畝だけ、そのタネを蒔いてみた。
これも初挑戦!
来春、たくさんの白ユリが咲くことを楽しみにしています♪
もっとも初挑戦なので、タネ蒔きの時期なども分からない…
そこでネットで調べると、ユリはタネで殖やすのは一般的でなく、球根を植える、とある。
しかも、いろんな肥料をやるみたい…
しかも、花がつくまでは3年から5年かかる、ともある。
ヒェ〜ッ!、来春の開花はムリなのかなぁ…
さて、ホッタラカシ農法でどこまで行けるか?、ですね。
このユリは、今までホッタラカシだったから、案外行けるかも…
■■■ 真説・歴史観(9) 日中戦争 ■■■
本メルマガの先週の復習+αを簡単にしてみよう。
日本は明治以降、日清・日露・第一次世界大戦において、戦勝国となった。
だがそれは、特に日露戦争は、英国を通じた「赤楯一族」のバックアップがあったからこそ、の勝利であった。
赤楯一族の番頭である米国のシフを通じて、日本に多額の軍資金を融資した話は有名である。
日露戦争に勝利(1905年)して、日本はロシアより、清国からの満州租借権を引き継いだ。
そこで赤楯一族は、代理人である米国のハリマンを通じて、満州鉄道の共同経営を申し出た。
日本はいったんそれを受け、桂・ハリマン協定を結ぶが、後に一方的に破棄してしまう。
この事を手始めに日本は、それまで恩のあった赤楯一族を軽視するような方向に向かう。
より具体的には、欧米列強に対抗した「アジア主義」の台頭だ。
世界的にみれば当時、日本とタイ以外は、列強の植民地状態だった背景がある。
欧米列強の奥の院である赤楯一族が、これを看過できるわけがない。
赤楯一族の「影響力」は、何度も登場する推薦書籍:
『
赤い楯 ― ロスチャイルドの謎』 (集英社文庫) 広瀬 隆 (著)
を是非お読み下さい。
フツーの歴史書は、国単位における国益の葛藤で、歴史を記述する。
だが近代史の真相は、「多国籍企業」の暗躍にカギがあったのだ。
一方、辛亥革命(1911年)が起こり、清国が滅亡(1912年)すると、満州は空白地帯となる。
(満州にユダヤ人国家を創ろうという、「河豚作戦」があったくらいだ)
日本にとって満州はもともと清国からの「借地」であり、ロシアから権利を受け継いだが、いずれ返さなければならない。
ところがその「大家さん」が滅亡したのだから、日本はラッキーと思ったに違いない。
またここが大事な点だが、清国は満州から中国(明)に侵略してきた、満人が創った国である。
満州はもともと中国から見て、万里の長城の北にある「化外の地」であって、中国領土ではない。
またこれも大事な点だが、革命で誕生した中華民国は、本来の中国人(漢人)が中心である。
つまり本来の中国人(漢人)の失地回復であり、その近代国家建設が、辛亥革命だったわけだ。
また革命の中心人物・孫文が、延べ十年の日本滞在で次のように主張した:
「革命を支援してもらえるなら、満州は日本がよろしく…」
実際、民間レベルを中心に、日本は孫文の革命を支援した。
さて革命で中華民国ができるが、孫文は、政権(国民党総統)を袁世凱に奪われてしまう。
その袁世凱も死去(1916年)し、ソ連が建国(1922年)され、「共産主義の脅威」が具体化する。
そこで日本の安全保障の視点は、ソ連と国境を接する満州に向けられた。
中国(国民党)も満州をコントロールできない状況下で、日本がやらねばならない。
そこで石原莞爾を中心に満州事変(1931年)を起こし、満州国を建国する。
(張作霖爆殺(1928年)など、悪ドイこともやったのは汚点ではある)
満州国のトップには、清国の最後の皇帝・溥儀に就任してもらう。
良く言えば、日本は満州を清に返還して新国家建設まで支援し、ソ連の脅威からも庇護した。
悪く言えば、溥儀を利用して日本の傀儡政権とし、満州の権益を狙った。
再度、話を元に戻しながら、重要な点をまとめる。
日本は、日露戦争(1904〜5)で得た、満州の権益を固定化しようとした。
満州の日米共同開発を目指した、桂・ハリマン協定を一方的に破棄(1905)して、独占化の方向に。
辛亥革命を支援して新中国・中華民国(1912)が建国され、さらに満州国(1932)が建国された。
その前には日本は、台湾(1895)・韓国(1910)・南樺太(1905)を手中にしている。
第一次大戦では戦勝国として、ドイツから山東省の権益まで取得(1919)している。
そしてアジア主義を標榜し、五族協和(日本人・漢人・朝鮮人・満人・蒙古人)を掲げた。
日本やアジア人の国益からは、欧米列強の支配を脱する意味で、当然の流れであった。
だが欧米列強、さらにその奥の院の赤楯一族からすれば、一大脅威である。
当時の意識からすれば、「黄色いサルたちめ、ふざけやがって!」、と映ったであろう。
特に日本に対しては、「日露戦争など、いろいろ面倒みてやったのに!」、となる。
こうして欧米列強、ズバリいえば赤楯一族の反撃が始まる。
歴史に「もしも」は無いというが、もしも満州の日米共同開発を受け入れていたら…?
おそらく、日本に原爆を落とされるまでの 悲劇は無かったかもしれない。
日本は、赤楯一族のアジア番頭さん的な役割で、うまく立ち回れたように思える。
(それを悟った戦後の日本の支配層が、アメリカ追従になったのも頷けますね)
しかし世界大戦後の、欧米列強からの植民地独立は、かなり遅れたに違いない。
なお次の書籍を、大いに参考にしました:
『
日中戦争 − 戦争を望んだ中国、望まなかった日本』
(PHP) 北村 稔 ・ 林 思雲 (共著)
日本人(北村氏)と中国人(林氏)が共著の日中戦争史は、画期的です。
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★★ 日中分断作戦 ★★
五族協和などと言い出した日本は、潰すか、根本的改造が必要だ…
赤楯一族が得意の、「サンドイッチ作戦」が発動される。
日中分断である。
具体的には彼らは、中国支援を打ち出していく。
支援といっても、難民支援とか経済復興とかではない。
中国で抗日・反日感情を煽り、かつ資金と軍需品を供給する。
五族協和どころかその逆の、日中戦争へと導く序曲の始まりだ。
★1924年、第一次国共合作 (〜1927年)
資本主義側であったはずの中国国民党が突如、中国共産党と共同路線をとる。
北京政府の軍閥を抑えることが目的と、一般的にいわれている。
そして国民党は、ソ連からの顧問を招聘する。
詳細は不明だが、資金も流れたに違いない。
中国共産党の裏にはソ連が、ソ連の裏にはコミンテルンが、その裏には赤楯一族がいる。
もっとも一般的には、日中が戦えばソ連が有利になる、くらいの解釈で終わっている。
だが国民党はその後、ドイツ、アメリカ、イギリスそしてフランスなどからも支援を受ける。
いわゆる「援蒋ルート」がその一つである。
これは、国境を超えた(赤楯一族の)意思を想定する以外に、解釈は難しいだろう。
後に、独ソ不可侵条約(1939)の成立に驚いた平沼首相が、
「欧州情勢は複雑怪奇」
との言葉を残して辞職したが、そのあたりへの認識が不足していたわけだ。
★1928年〜、ドイツから中国への武器輸出と軍事顧問
ドイツのクルップ社とシーメンス社が、100万マルク相当の軍需品を中国へ輸出したのを手始めに、
ヒトラー政権誕生の1933年以降は、軍需品輸出は急速に増大して5000万マルクにもなる。
推薦図書『赤い楯』をお読みの読者ならお気付きだろうが、この2社はモロ赤楯一族だ!
ヒトラー政権と赤楯一族の親密ぶりも、その本には書かれているので必読だ。
ちなみに次号メルマガの準備として、同じ1933年に誕生した、アメリカのルーズベルト政権について、
『操られたルーズベルト
― 大統領に戦争を仕掛けさせた者は誰か』
カーチス・B. ドール (著), 馬野 周二 (翻訳)
も必読で、赤楯一族のアメリカでの影響力が伺える。
(アメリカの場合は、ロックフェラーとの絡みもあるが、詳細は割愛)
また日中戦争が始まると(1937)、74名のドイツの軍事顧問団が中国軍を指揮したという。
なんか日露戦争時の、日本への英国軍事顧問団派遣とソックリの状況ではないか!
ただ「窓口」がイギリスとドイツで違い、「対象」が日本と中国で違うだけだ。
もっとも前掲図書『日中戦争』によると、ドイツは中国産の希少金属タングステンが望みだったという。
比重と硬度が高く、最新鋭の砲弾製造には欠かせなかったからという。
だがそれとしても、その見返りが武器と軍事顧問というだけでは、論理的必然性が乏しい。
なおドイツは、日独伊三国同盟(1940)少し前の1938年には、さすがに中国から顧問団を帰国させる。
だが窓口がアメリカなどに変わっただけで、赤楯一族の中国支援は続く。(後述)
多国籍企業の赤楯一族だからこそ、国家間のしがらみに縛られないわけだ。
★1928年11月、中国に中央銀行設立
明治時代に、日本に対してやったテコ入れと同じである。
その時と同様に、赤楯一族の支援なくして出来るものではない。
そして 国民党政府は英米と連携して、経済建設を進める。
この年2月には、欧米と関係が深い「宋家の三姉妹」の三女を妻とする蒋介石が国民党トップに。
ちなみに宋家はキリスト教一家であり、地下出版活動や、国民党の財政を担当している。
同じく国民党の財政基盤であった、上海の浙江財閥の重鎮・錢永銘などとも関係が深い。
★1928年12月、満州を国民党政府の支配下に編入すると宣言
孫文が死去(1925)しているので、「満州は日本がよろしく…」との話は白紙になる。
これで、「満州は生命線」とする日本との対立は決定的となる。
繰り返すが、満州は万里長城の北にある化外の地であって、もともと中国ではない。
しかも国内問題を多く抱えた国民党が、日本との決定的対立が予想される満州編入を宣言した。
大きな後ろ楯を確信しなければ、こんな宣言は出せないであろう。
ただし当時満州の人口の約9割が本来の中国人=漢人であったから、事情は分からなくもない。
★1931年11月、中国共産党が対日宣戦布告
同年9月に満州事変が起こったのを受け、中華ソビエト共和国の名義で対日宣戦布告をする。
当時の中国共産党はソ連の言いなりであるから、これは明らかにソ連の指図による。
★1936年12月、西安事件
国民党軍(蒋介石)は、共産党軍を西安に追い詰めたが、逆に「監禁」されるはめに。
共産党軍は蒋介石殺害も検討したが、ソ連のスターリンの鶴の一声で中止に。
繰り返すがその頃の中国共産党は、ソ連の言いなりだから当然だ。
そして、対日戦争を肯定する派が主流派となる。
それが翌年の、第二次国共合作とつながっていく。
★1937年7月7日、盧溝橋事件
北京郊外の盧溝橋で夜間訓練していた、日本軍と国民党軍の双方が銃撃される。
これで両軍の銃撃戦となった。
これを日本側の挑発だとする説もあるが、共産党軍兵士の犯行説が有力である。
状況として、共産軍は当時その数が極めて少なかった。
少数軍で戦いに勝つには、多数どうし(国民党軍と日本軍を)戦わせるのが有効だ。
結果として共産軍が最後の勝利者になったのだから、可能性は高い。
またこの事件が日中戦争の発端だと一般的に言われるが、これも違っている。
何故ならその後、日本側は戦局拡大を恐れて、あらゆる手を講じている。
そもそも次の3つの理由で、日本は中国と戦争はしたくなかった:
1) 北のソ連の脅威に備えて、中国との戦争は絶対避けたい
2) 五族協和のアジア主義の理念と反する
3) 昭和天皇の日中不戦の強い意志 (昭和天皇と中国の特別関係は割愛)
その結果、いったん事態は急速に沈静化していった。
ところが、国民党軍の大軍が北京に向かっているとの「情報」が入る。
日本側は迷うが、北京在住の日本人保護を優先して、軍を北京に向ける。
だが、その「情報」は、ナント「誤報」だった!
その「誤報」の出所を知りたいところではあるが…
しかし中国側から見たら、日本軍が本当にやってくる現実に戸惑っただろう。
一方日本の近衛首相と石原莞爾は、蒋介石との直接トップ和平会談を計画した。
専用機まで用意したが、主に次の2つの事件が続いて、実現不可能となる。
★1937年7月29日、通州事件
北京の東約12kmの通州で、婦女子を含む日本人約420名が襲撃され、約230名が虐殺された。
首謀者である張慶餘の回想記により、中国第二十九軍との間に事前密約があったとの説が有力とされる。
諸説あるが、日中を戦わせようとする意思が存在していたとしたら、都合の良い事件である。
この事件により、日本国内世論は、「中国(支那)を懲らしめよ」の大合唱となる。
★1937年8月13日、上海事変(第二次)
同年8月9日、日本側は元領事の船津を通じて、中国政府要人と和平会談をもった。
しかしその夕刻、海軍特別陸戦隊の大山中尉が、中国兵に射殺される。
そして13日未明より中国軍は、上海国際租界の日本海軍陸戦隊を包囲して、交戦が開始した。
翌14日には、日本艦艇をねらった「アメリカ製」の国民党軍機による空襲が開始された。
(だがパイロットの技術不足による誤爆で、多くの一般市民が犠牲となる)
翌15日には、反撃として日本海軍が九州からの渡洋爆撃を行ない、制空権を掌握する。
(ただしこれは日本海軍独自の判断で行われ、日本政府はまだ和平を望んでいた)
こうして、南京から重慶までの国民党軍への追撃戦が始まり、事態は泥沼化していくのだ。
ただし、日中戦争の本当の発端はこの上海事変であり、中国側から仕掛けたのである。
決して、盧溝橋事件のような「小競り合い」なんかが、発端ではない!
また当時中国国内は混迷しており、蒋介石の国民党が中国の真正な政府とするには足りなかった。
そこで近衛内閣は翌1938年明け、「国民政府を対手とせず」声明を発表した。
日本にとって国民党軍との戦いは、今で言えば、アメリカの中東での対テロ掃討のようなものであった。
日本が真に望んだのは、日中友好である。
なぜなら、五族協和のアジア主義の理念を実現したいし、ソ連の脅威からしても中国とは戦いたくない。
それに日本人は、心底では文化伝来の祖・中国を尊敬すらしてい「た」。
そこで日本は、汪兆銘による親日政府樹立を画策し、一応実現した。(1940)
★追い詰められる日本
日本がその後1938年11月、よりアジア主義的色彩の「東亜新秩序」建設を声明すると、
1939年2月には国民党に、アメリカの銀行から2500万ドルの融資と、ビルマ経由で物資援助が…
日本が、1940年夏に「大東亜共栄圏」構想を発表すると、
1940年12月には国民党に、米国から1億ドル、英国から1千万ポンドの借款が供与された。
そして1941年4月には、ABCD包囲陣(米・英・中・蘭による対日経済封鎖網)が形成される。
こうした流れから見ても、日本vs中国というより、日本vs赤楯一族の戦争であったと、筆者は訴えたい。
実は国民党軍の蒋介石は、日本軍との戦闘に苦戦して、何度も悲観的になり和平に傾きかけた。
1940年6月、英仏軍がドイツ軍に破れパリが占領された時には、悲観も絶頂に達した。
ところがそれまで衝突を避けていた中国共産党軍が、突如日本軍に大規模な攻撃を仕掛けた。
このため蒋介石は、日本軍との和平交渉を進めるのが困難となった。
明らかに、和平交渉を遅延させる作戦を、ソ連経由で赤楯一族が行なった、と筆者はみる。
そしてやがて、米英が本格的に日本潰しに出るという秘密計画を聞いて、やにわ強気になったという。
例えば1940年11月、日本側はそれまでの国民党が要求する交渉条件を受諾した。
当然和平実現かと思われたが、米英が蒋介石援助を本格的に決定したと聞き、日本との交渉を拒絶した。
実際先述のようにその翌月には、米国から1億ドル、英国から1千万ポンドが支援された。
他に例えばアメリカは国民党軍に、日本本土を空爆できる長距離爆撃機を貸与した。(日米開戦前)
ただしヨーロッパ戦線が悪化したのでそちらに廻し、実際には使われなかったが…
★その他、情報戦など…
中国共産党軍兵士に配られた『戦士政治課本』 等には、「親日派の中国人は暗殺せよ」、とある。
当然、ソ連からの指示であろうが、これでは五族協和や日中友好どころではない。
また当時中国では(特に学生の間で)、抗日感情が煽られていった。
捏造写真も使われた。
例えば、日本軍の上海爆撃により一人で泣き叫ぶ赤ちゃんの写真や(発煙筒など用いたヤラセが判明)、
青龍刀のように日本刀を振り上げて(ヤラセ丸出し)中国人を切ろうとする偽日本兵の写真等が有名だ。
これらはアメリカでも報道され、アメリカ人の反日感情をも高めていった。
こうした情報操作、世論操作は、「彼ら」の得意とするところである。
国民党中央宣伝部で国際宣伝処長を務めた、曾虚白の自伝が1988年に台湾で出版された。
そこには、後に東京裁判で南京大虐殺の証言者となったティンパーリーやスマイスについて、次のように書かれている:
「我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔を出すべきではなく、 我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を捜して我々の代弁者になってもらわねばならないと決定した。
ティンパーリーは理想的人選であった。 かくして我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、 日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷し発行することを決定した」
★★ おわりに ★★
中国は昔から「中華思想」のお国柄であって、世界の中心であると考えていた。
それが「格下」の日本ごときに日清戦争で敗北した(1895)のであるから、大きな屈辱である。
それを利用すれば赤楯一族にとって、日中分断作戦はそれほど難しいものではなかっただろう。
『戦争を望んだ中国、望まなかった日本』
とても的(マト)を得た表現であると思う。
ではみなさん、良いお年を!
「月刊・沈黙の兵器」
★まぐまぐ!サイト: http://www.mag2.com/m/0000150947.html
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