★月刊・沈黙の兵器 第00040号 '08/06/25 ★

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耕さず、肥料をやらず、雑草も殆ど取らない農法について、何度か紹介した。
 筆者は更に過激に、「タネすら蒔かない」農法を模索中である。
 (最初だけはもちろんタネを蒔きますよ…。念のため)
 人間は収穫を頂戴するのみ!、ってのが理想である。
 キクイモ・ミョウガ・フキ・シソ・イチゴ・アサツキ等で、一応実現できた。
 柿・イチジク・くり・梅・山椒・スモモなどに至っては、全くの放ったらかしだ。
 それでも、かなりの量の収穫がある。(見映えは少し悪いのもあるが (^^;)

そして今年は、蕎麦(ソバ)で実現できたので、喜んでいます。
 昨年、蕎麦の収穫を少し遅い時期にした。
 だからある程度の数のタネが、既に地面に落ちていたのだろう。
 今年は勝手に芽が出てきたというわけだ。(量もそこそこある)
 次の写真が、一部開花してきたその蕎麦です:

野生化した蕎麦(ソバ)

ちなみに、蕎麦を栽培していますと言うと、「蕎麦をうつんですか」と訊かれる。
 ヌードルとしての先入観が、あまりにも大きいようだ。
 筆者は、そんな面倒臭いことはしません。(笑)
 現在の利用法は、「スプラウト」である。
 台所のガラス窓に棚を何段も作って、容器に入れ、年中発芽させている。
 料理の直前に収穫できて最高に新鮮だし、発芽パワーも頂戴できる。


台所窓の蕎麦スプラウト

次はお米を炊くように、蕎麦を炊飯器で炊いてみようと思っている。
 モンゴルのどこかの地方で、そのようにして蕎麦を食べているようだ。
 その様子を映したテレビ放送を、筆者は見たのです。
 結構おいしそうだったですよ v(^○^)
 でも脱穀方法とか水加減等が分からないので、知っている人いませんかぁ?


■■■ 真説・歴史観(4) 天皇から武士へ ■■■

本メルマガは、ご存知のように本来のテーマは「歴史」ではありません。
 しかし現状認識を高めるには、歴史認識が重要です。
 だから始めた歴史シリーズですが、今回から少しスピードアップします。
 本来の議論に、できるだけ早く復帰したいからです。
 だから本来の議論に必要と思われるトピックだけ、最小限にご紹介します。
 ご存知のトピックも多いかもしれませんが、「確認」の意味でも書きました。
 1つでも、あ、知らなかったかも、なるほどね、と思って頂ければ幸甚です。
 なお、なるべく時系列的に書くつもりですが、どうなるか分かりません。

ちなみにもし筆者が大学入試の歴史を受験したら多分、50点もとれません。
 「問題: ****の時、****は(  )であった。(  )が何かを述べよ」
 そんなことは多くの場合、歴史事典を引けばよい話ではないか。
 最近ではインターネット、特にウィキペディアもある。
 第一、そんな「知識ばかりの歴史」では、面白くもなんともない。
 そんなことより、その背景の流れ、何故そうなったかの方が重要である。
 本メルマガは、そんな観点から書いています。


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★★ 人を食った話 ★★

有名な吉川英治の「三国志(三)」草莽巻にある話である。

 玄徳はその晩、猟師の家に泊まった。
 猟師は、感涙を流して、
 「こんな山家にご領主をお泊め申すのは勿体ないやら有難いやら…
  (中略)
 その晩、猟師は肉を煮て玄徳に饗した。
 餓えぬいていた玄徳主従は、歓んで箸を取った。
 そして、「何の肉か」と、たずねると、「狼の肉です」という猟師の返辞だった。
 ところが、翌朝出発に際し、孫乾が馬を引出そうとして、何気なく厨をのぞくと、
 女の 死骸があった。
 愕いて、猟師に、「いかなるわけか」と質すと、猟師は泣いて、
 「わたくしの愛妻ですが、ご覧のごとく、家貧しく殿へ饗すべき物もありませんので、
  実は、妻の肉を煮ておもてなしに捧げたわけでございます」と、初めて打明けた。
 孫乾からそれを聞いて、玄徳は感傷してやまなかった。



本当に実際、「人を食った話」だったけど、どう思われますか。
 三国志という、小説での話だろうって?
 実は似たような話は、つい数十年前まで、中国各地で多数存在した。
 日本でも、人食いではないが、人身御供で生き埋めなんてのもあった。

じゃあ実際にあった話なら、殺された猟師の妻が可哀相!
 …と思われるかもしれませんが、猟師の妻も「喜んで」死を選んだのだ。
 それは可哀相というより、当時としては「美談」だったのである。
 猟師はその後、玄徳に召抱えられ、出世している。

つまり現代人の感性で、歴史を見てはいけないということだ。
 例えば神風特攻は志願制であり、その競争率は100倍以上だったという。
 そう聞いても現代人は、「仕方なく志願したのだろう」、などと思う。
 しかし実際はほとんどの特攻隊員は、死を超越した心境に達していた。
 彼らの遺された手記を読んでみると、それが推察できる。
 それでも一部の現代人には、「偽りの気持ちを書いた」、となる。
 かように、歴史における当時の人々の感性を理解することは、困難だ。
 でも、できるだけ理解していこうという気持ちは、必要だろう。

そんな話が出たついでに、もう一つ中国のお話。
 宦官(かんがん)や纏足(てんそく)だ。
 日本は律令制度など、中国からいろいろ取り入れてきた。
 しかし去勢や奇形を強制する、宦官・纏足などはパスしたわけだ。
 仏教や神道の感性からは、とても受け容れられなかったからだろう。


★★ 日本人は話し合いがお好き ★★

聖徳太子が604年に制定したとされる、『十七条憲法』をご存知でしょう。
 「和を以って貴しとなし」で始まり、ここだけは聞いたことがありますよね。
 筆者的に重要と思われろところを現代訳すると:

  皆んな仲良く、争いごとを避けましょう。
  お互い話し合えば、問題は必ず解決します。
  仏法を大切にしましょう。
  人は本来、悪人はいないから、よく教えれば仏法に従います。
  官吏(公務員)は、礼を重んじて、民の模範となりなさい。
  官吏は、贅沢をせず、賄賂は受けとらず、民に公正でありなさい。
  官吏は、朝早くから出勤して、遅くまで誠実に働きなさい。
  官吏・貴族は、私利私欲を棄て、公の利益を考えなさい。
  私心は恨みを生み、恨みは不和に至り、不和は公益を妨げる。
  独断で決めないこと。必ず皆んなと一緒に議論すべきである。


明治になってからの、明治天皇の『五箇条のご誓文』においても、
  一、広ク会議ヲ興シ万機口論ニ決スヘシ
 と第一箇条目から、会議 = 話し合いの重要性を説いている。
 さすが「大和」 = 大きく和する、平和指向の国ですね。
 聖徳太子の昔から、かなり「民主的」だったといえるかも。
 それに日本は、「人間性善説」が基本にあるんですね。
 西洋の場合、人間性悪説だから「法律」が発達したわけです。

話し合いを重んじるから、織田信長のような絶対君主は排除されます。
 徳川幕府は、老中らと話し合うことで、長期政権を維持できたのです。
 明治以降から戦後まで、天皇との御前会議が頻繁に開かれました。
 しかし平和時なら話し合いは重要だけど、有事に弱いのは当然ですね。
 日本は外国との戦争には基本的に弱い、根本原因がそこにあります。

つまり話し合いでは諸説入り乱れ、なかなか結論が出ない場合が多い。
 幸運の女神に後ろ髪は無い、というが、決断のタイミングは重要だ。
 あるいは妥協に妥協、足して2で割るのが普通になってしまう。
 すると全体ビジョンに基づいた、長期的公益が損なわれるかもしれない。
 あるいは、外圧がないと変わらない、という傾向になってしまいます。
 それが、聖徳太子の昔から日本にあったことを、言いたかったのです。


★★ 平安の理想郷 ★★

十七条憲法(605年)の以前、例えば仁徳天皇(4世紀)の有名な和歌がある。
  高き屋に
   のぼりて見れば
    煙り立つ
     民のかまども
      にぎはひにけり

 つまり「民のかまど」から立ち昇る煙をみて、民の生活を案じたという。
 それなりに、良い治世が行なわれていたようだ。

大化の改新(646年)では、公地公民の理想を掲げた。
 土地の私有制を廃するこれって、一種の共産主義なんですよね。
 一方、十七条憲法では話し合いが大事、って一種の民主主義だし…、
 また官僚には、私利私欲を棄てて公益を考えろ、ともあるし…、
 いまのどっかの共産主義国家より、良かったかもしれない。
 尤も公地公民は、私有制の荘園など例外を認めて、あまり実現しなかった。
  (ちなみに荘園を守る守備隊が、後の武士のルーツ)
 でも、なかなか革命的な思想を、実践しようとしたわけですね。

さて十七条憲法より150年、奈良の大仏は、民衆と共に建立(752年)された。
 『
 律令国家を目指していた聖武天皇は、納税者である民衆を管理しようとした。
 しかし、律令が課す重税に逃亡する民衆が後を絶たなかった。
 そこで聖武天皇は、民衆に人気ある僧・行基にならい、仏教を基本とした。
  (十七条憲法の、「仏教を大切に」、を忘れていたのかな?
 そして民衆の自発的な力で、巨大仏像を建造することになったのだ。
 大仏は、収奪対象でしかなかった民衆を、国家が認める転換期の象徴となった。

 』 (NHK・HPより http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2006_05.html#02
 こうして国内政治は、いい方向に流れていくのである。

一方、「国家安全保障」の点では、どうだったか。
 坂上田村麻呂らの活躍(800年前後)により、北方の蝦夷を征圧した。
 これで外敵からの脅威が、一応消滅した。
 (蝦夷側からみたら、たまったもんじゃないけど)
 平安時代(794年〜)の初期である。

そして、朝廷の色々な努力の結果、平安中期には理想郷が実現したのだ。
 なぜなら、長い「平和」(平安)が到来したのだ。
 どうして分かるかというと、なんと軍隊と警察が廃止された。画期的!
 正確には、各々を担当する兵部省と刑部省は、あるにはある。
 しかし担当大臣はいないし兵隊はいない、という有名無実ぶりだ。
 外敵もいないし、国内治安も抜群だったから、実現できたこと。
 戦争を無くそう!、って平和主義者からしたら、正に理想郷ではないか!

おかげさまで、世界初の女流作家・紫式部などが花開いたのだ。
 源氏物語(1001年)の、あの世界である。(治安抜群でしょ?)
 ヨーロッパでは、初の女流作家作品(1688年)は、アフラ・ベーンによる。
 日本の方が、687年もリードしているのだ。

さてここで、南米「インカ・マヤ帝国の悲劇」を想起しなくてはいけない。
 なぜ、たった数百名のスペイン人によって、彼らが征服されたのか?
 理由はただ一つ。彼らに軍隊が無かったからである。
 日本の平安時代中期にあたるタイミングで、侵略を受けたのだ。
 日本でも、もし武士による鎌倉幕府成立(1192年〜)が遅れたら?
 元寇(1274年・1281年)で、あっさり征服されていただろう。


★★ 武士の台頭と、日本の戦争(国内) ★★

さて、平安の理想郷も、いつまでもは存続しなかった。
 やはり軍隊も警察も無いという国家は、理想でしかなかったのか?
 警察が無くなれば犯罪も無くなるかといえば、現実問題は否である。
 しかも私有制である荘園が拡大したので、税収はジリ貧状態です。
 荘園は徴税の対象外(例外)だったから、税を徴収できない。
 逆にいえば、税を払わなくていいから、荘園が拡大したのです。
 それに荘園は私有制だから、農民の生産意欲が高まったのです。
 公地公民(共産主義)よりも、私有制(自由主義)が勝利したのです。

こうして、荘園の所有者である豪族が、経済力を増していきました。
 私有財産が増えると、それを護らなければなりません。
 しかし朝廷には、軍隊も警察も無いから、護ってもらえない。
 だから豪族は、私設の軍隊や警察を組織しました。
 それが後に武士と言われるようになり、豪族は武士の棟梁というわけ。
 こうして武士が台頭し、経済力と軍事力をもったのです。
 その代表格が、平氏と源氏なのです。

こうして平安後期ともなると、朝廷の力は弱体化してしまったのです。
 でも朝廷側には、「秘策」がありました。
 本メルマガ前々号(ep38)で説明したように、天皇は神社の親玉です。
 政治(政りごと=祭りごと)の実績もあり、祭祀王です。
 どの地でも、どの時代でも、「宗教」は絶大で隠然たる力があります。
 古事記や日本書紀で、権威付け(悪くいえば洗脳)も完了済みです。
 一方武士には、力はあっても、権威(特に宗教的権威)がありません。
 朝廷はその権威で以て、軍隊と警察の機能を、武士に委託したのです。
 その長官職が、征夷大将軍や、守護・地頭だったわけです。
 武士側もその権威を、むしろありがたく頂戴したのです
 こうして以後700年も、幕府と朝廷が並存することになりました。
 欧米人に解り易く言えば、天皇は日本のローマ法皇となったのです。

さてその後は、武士の覇権争いが、江戸時代までの日本の歴史です。
 覇権争いの最たるものが、戦争です。
 でもそこには一定の、日本の戦争ルールがありました。
 最大の例は、戦争の農業へのダメージを最小限にすることです。
 具体的には、こうです:
  ●戦争は、できるだけ人里離れた場所でやること。
    だから、壇ノ浦とか、川中島とか、関が原が戦場になったのです。
    関が原の戦では、地元農民が弁当持参で見物にきたくらいです。
    ただ都会は、どうしても市街戦になりやすい。
    京都人が閉鎖的なのは、戦争の記憶が関係してるのだと思う。
  ●戦争は、できるだけ農閑期にすること。
    農閑期なら、もしも田畑での戦闘になっても、被害は少ない。
    また兵隊の多くの部分を、自国農民で構成していたからです。
  ●戦争中、できるだけ地元農民から略奪等をしないこと。
    勝って占領した後、地元農民からの信頼が必要だからです。
    そこが新しい領地になり、領民になるからです。
    農民の方も、今度はどんな領主様かなぁ、って感じです。

実はこれは温暖な気候で、島国ニッポンの戦争ルール、日本標準です。
 世界標準では、戦争は皆殺しだったです。
 だから日本のお城と違って、都市ごとすっぽり城壁で囲んだのです。
 本メルマガ第14号でも、そのことを紹介しました。
 例えば、旧約聖書の次の記述です:
  『われわれは彼のすべての町を取り、そのすべての町の男、女および子供を全く滅ぼして、ひとりをも残さなかった。』(申命記・2章34節)
 日本の戦国時代など、世界標準からしたら、平時の「小競り合い」みたいなものです。
 余談ながら、先述の平和帝国インカ・マヤの戦争は、日本よりも穏やかでした。
 戦闘員はお互い王族・貴族だけで構成された100人程度、戦場は密林でした。
 時代劇の映画に出てくる「ヤクザの出入り」レベルで、勝敗を決したようです。
 かたぎの方(一般市民)には迷惑をかけねぇぞ、って考え方ですね。

さて、「悪いヤツほど世にハビコる」とは、よく言ったものです。
 武士間の戦争、例えば源平の戦いでは源氏が勝利しました。
 ここで源義経がとった戦法、精兵70騎を率いた平家本陣へ奇襲です。
 有名な「鵯越の逆落とし」で、平氏軍は大混乱に陥りました。


源義経の奇襲攻撃現場
(出典HP: http://www2.ocn.ne.jp/~umeno87/)

しかし当時としては、奇襲攻撃は卑怯な戦法だったのです。
 「やぁやぁ吾こそは…」と、名乗ってから戦闘を始めたくらいです。
 決勝戦である壇ノ浦の水軍戦でも、源氏は卑怯な戦法をとりました。
 源氏は、当時禁じ手であった敵舟の漕ぎ手を集中的に射ったのです。
 漕ぎ手を失った平氏水軍の動きは、止まってしまいます。
 そこで敵舟に跳び移る、これが「義経の八艘跳び」の真相です。
 ところが勝てば官軍で、義経は後世では英雄になります。

先述の「農閑期に戦争する」ルールを破ったのは、織田信長でした。
 信長は、職業軍人の軍隊を組織して、年中攻撃しました。
 だから、戦国の覇者になれたのです。
 後の徳川家康は、狸オヤジと揶揄されるくらい、謀略家でした。
 だから小早川を寝返させるなどして、関が原で勝利したのです。
 (もっとも中国では、三国志の時代からこのパターンですが…)

本来、戦争は政治の一手段であって、ルールがあります
 ところが、歴史が進むにつれて戦争モラルが低下したのです。
 近代でも、「国際法という戦争ルール」がありました。
 というか、戦争は皆殺しの世界標準が、見直されたのです。
 ところが太平洋戦争で、国際法を遵守しなかったのはアメリカです。
 しかし勝てば官軍で、東京裁判で悪者になったのは日本でした。
 さらに最近のイラク戦争などでは、国際法が形骸化しています。
 これらに関しては後日、本メルマガで取り上げる予定です。


★★ おわりに ★★

もう少し話を先に進めようと思っていたが、メルマガ発行をあまり引き伸ばしても問題であろう。
 これでも現在、深夜の2時である。
 文才がないため、執筆に時間がかかるのです。(笑)
 それにあまり長文になっても、読者もお困りでしょう。(再笑)
 どうか次回を、ご期待ください。


【Repeat Messages】
●日本が800兆円の負債? ちょっと待った! 日本は世界一の債権国だぞ! 外国からの負債はない!
  では日本の負債の債権者は誰だ? それは日銀とその子分の金融機関だった! ★参照: ep1
●日銀は株式会社であり国の機関ではない。(その証拠にURLは私的機関を示す「or.jp」だ)
  日銀を国有化して、政府と国会が信用創造せよ! ★参照: ep2
●バブルとその崩壊は、日本を構造改革するため意図的に創られたのだ! ★参照: ep6, ep7
●聖書における天地創造の神はエホバ(ヤハウエ)ではない。天地は神々(エロヒム)により創られた、とある。
  アダムとイヴだけが最初の人類ではない。他の神々が創った人が存在した? ★参照: ep13

「月刊・沈黙の兵器」
★まぐまぐ!サイト: http://www.mag2.com/m/0000150947.html
★発行者のサイト: http://www.geocities.jp/akion200104/
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■次号の予定: 真説・歴史観(5) 江戸時代
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