「鏡の法則」

(実話ですが、登場人物の職業などを多少変えてストーリーを設定しています)

A子(主婦、41歳)には悩みがあった。
 小学校5年生になる息子が、学校でいじめられるのだ。
 いじめられるといっても、暴力まではふるわれないらしい。
 友達から仲間はずれにされたり、何かあると悪者扱いされたりすることが多いようだ。

息子は、「いじめられてるわけじゃない」と言い張っているが、息子を見ていると、寂しそうなので、A子は胸が痛むのだ。

息子は野球が好きなのだが、友達から野球に誘ってもらえないので、学校から帰ってきたら一人で公園に行って、壁とキャッチボールをしている。2年くらい前には、息子が友達といっしょに野球をしていた時期もある。
 当時のことなのだが、A子が買い物の帰りに小学校の横を通りかかったときに、グランドで息子が友達と野球をしていた。息子がエラーをしたらしく、周りからひどく責められていた。

チームメイト達は、容赦なく大きな声で息子を責めた。
 「お前、運動神経がにぶ過ぎだぞ!」
 「お前のせいで3点も取られたじゃないか!」
 「負けたらお前のせいだぞ!」
 A子は思った。
 「たしかに息子の運動能力は高くない。しかし、息子には息子のいいところがある。とても心が優しい子なのに。」A子は、自分の息子のいいところが認められていないことが、悔しかった。
 そして、ひどいことを言うチームメイト達に対して、自分の息子が笑顔で謝っているのを見るのが辛かった。

その後まもなく、息子は野球に誘われなくなった。
 「お前はチームの足を引っぱるから誘わん」と言われたらしい。
 息子にとって、野球に誘ってもらえないことが、一番つらいようだ。
 A子へのやつ当たりが目立って増えたことからも、それがわかる。
 しかし息子は、辛さや寂しさを決して話してはくれなかった。
 A子にとって一番辛いのは、息子が心を開いてくれないことだった。
 「僕は平気だ」と言い張るばかりなのだ。
 A子が、「友達との上手な関わり方」を教えようと試みても、「うるさいな!ほっといてよ」と言ってくる。「転校しようか?」と持ちかけた時は、「そんなことをしたら、一生うらむ!」と言い返してきた。

息子の状況に対して自分が何もしてやれないことが情けなく、A子は無力感に陥っていた。
 そしてある日、学校から帰宅して公園に行ったばかりの息子が不機嫌な顔で帰ってきた。
 「何があったの?」と聞いても、「何もない」と言って教えてくれない。

真相は一本の電話で明らかになった。
 その夜、親しくしているご近所の奥さんから電話がかかってきたのだ。
 「A子さん、○○○君(A子の息子の名前)から、何か聞いてる?」
 「えっ? いいえ」
 「今日、公園でうちの下の子どもをブランコに乗せていたのよ。○○○君は、いつもの壁にボールを投げて遊び始めたわ。するとね、○○○君のクラスメイトらしい子たちが7、8人くらいやって来てね、『ドッジボールするからじゃまだ!』って○○○君に言うのよ。しかも、その中の1人がボールを○○○君にぶつけたのよ。○○○君、すぐに帰っていったわ。私としては、その場で何もできなくて、申し訳なかったと思ってね。」

A子は愕然とした。
 「そんなことを私に黙っていたなんて。」
 そんなつらい思いをしていながら、自分に何も言ってくれないことが悲しかった。
 その日は、あらためて息子から聞き出そうという気力も湧いてこなかった。

翌日、A子はある人に電話をかけることを決意した。
 その人とは、夫の先輩に当たるB氏だ。
 A子は、B氏とは話したこともないのだが、1週間前に夫からB氏の名刺を渡された。

B氏は、夫が高校時代に通っていた剣道の道場の先輩である。
 夫も20年くらい会っていなかったらしいが、夫が最近街を歩いていたら、たまたまばったりと出会ったということだった。久々の再会に盛り上がって喫茶店に入り、2時間も話したらしい。
 B氏は、今は経営コンサルタントを仕事にしているそうだ。
 夫の話ではB氏は心理学にも詳しく、企業や個人の問題解決を得意としているとのこと。
 そこで夫が息子のことを少し話したら、「力になれると思うよ。」と言って名刺を渡してくれたそうだ。

夫はその日、「お前の方から直接電話してみろよ。話を通しておいてやったから」と、その名刺を渡してきた。
 A子「どうして私が、そんな知らない人にまで相談しなきゃいけないの。あなたが直接相談したらいいじゃない。」
 夫「俺が心配なのは、お前のほうだ。○○○のことで、ずっと悩み続けてるじゃないか。だから、そのことをBさんに相談したんだ。」
 A子「私に問題があるっていうの?私が悩むのは当然よ!親なんだから。あなたは一日中トラックに乗ってりゃいいんだから気楽よね。実際に○○○を育ててるのは私なんだからね。あなたはいっしょに悩んでもくれない。そのBさんに相談なんてしないわ。どうせその人も、子育てのことは何も分からないに決まってるわ。」
 そう言ってA子は、その名刺をテーブルの上に投げた。

しかし、昨日の出来事(近所の奥さんから聞いた話)があって、A子はすっかり落ち込み、わらをもすがるような気持ちになっていた。
 「こんな辛い思いをするのはイヤだ。誰でもいいから、助けてほしい。」
 そう思ったときに、B氏のことを思い出したのだ。
 幸い名刺はすぐに見つかった。
 息子が学校に行って1時間くらい経ったころ、意を決してB氏に電話をかけた。
 その時A子は、その日に起きる驚くべき出来事を、想像だにしていなかった。

受付の女性が出て、B氏に取り次いでくれた。
 A子は自分の名前を告げたものの、電話に出てきたB氏の声がとても明るかったので、「こんな悩み事を相談してもいいのか?」という気持ちになった。
 次の言葉がなかなか見つからなかったのだが、B氏のほうから声をかけてきてくれた。

 「もしかして□□君の奥さんですか?」
 「はい、そうなんです。」
 「あー、そうでしたか。はじめまして。」
 「あのー、主人から何か聞かれてますか?」
 「はい。ご主人から少し聞きました。息子さんのことで悩まれてるとか。」
 「相談に乗っていただいていいのでしょうか?」
 「今1時間くらいなら時間がありますので、よかったら、この電話で話を聞かせてください。」

A子は、自分の息子がいじめられたり、仲間はずれにされていることを簡単に話した。
 そして、前日にあった出来事も。ひととおり聞いて、B氏は口を開いた。

「それは辛い思いをされてますね。親としては、こんな辛いことはないですよね。」
 その一言を聞いて、A子の目から涙があふれてきた。
 A子が泣き始めたのに気づいたB氏は、A子が落ち着くのを待って続けた。
 「奥さん、もしあなたが、本気でこのことを解決なさりたいなら、それは、おそらく、難しいことじゃありませんよ。」
 A子は、「難しいことじゃない」という言葉が信じられなかった。
 自分が何年も悩んで解決できないことだったからだ。
 だけど、B氏の言葉が本当であってほしいと願う気持ちもあった。

「もし解決できるなら、何だってやります。私は本気です。だけど、何をやれば解決するんですか?」
 B氏「では、それを探りましょう。まず、はっきりしていることは、あなたが、誰か身近な人を責めているということです。」
 A子「えっ? どういうことですか?」
 B氏「話が飛躍しすぎてますよね。まず理論的なことをじっくり説明してから話せばいいんでしょうが、それをすると何時間もかかるし、私もそこまでは時間がないのです。なので、結論から話します。理論的には根拠のある話なんで、後で、参考になる心理学の本など教えます。結論から言います。あなたが大事なお子さんを人から責められて悩んでいるということは、あなたが、誰か感謝すべき人に感謝せずに、その人を責めて生きているからなんです。」
 A子「子どもがいじめられるということと、私の個人的なことが、なぜ関係があるんですか? 何か宗教じみた話に聞こえます。」
 B氏「そう思われるのも、無理もないです。われわれは学校教育で、目に見えるものを対象にした物質科学ばかりを教えられて育ちましたからね。今、私が話していることは、心理学ではずいぶん前に発見された法則なんです。昔から宗教で言われてきたことと同じようなものだと思ってもらったらわかりやすいと思います。私自身は何の宗教にも入っていませんけどね。」
 A子「その心理学の話を教えてください。」
 B氏「現実に起きる出来事は、一つの『結果』です。『結果』には必ず『原因』があるのです。つまり、あなたの人生の現実は、あなたの心を映し出した鏡だと思ってもらうといいと思います。例えば、鏡を見ることで、『あっ、髪型がくずれている!』とか『あれ? 今日は私、顔色が悪いな』って気づくことがありますよね。鏡がないと、自分の姿に気づくことができないですよね。ですから、人生を鏡だと考えてみて下さい。人生という鏡のおかげで、私たちは自分の姿に気づき、自分を変えるきっかけを得ることができるのです。人生は、どこまでも自分を成長させていけるようにできているのです。」

A子「私の悩みは、私の何が映し出されているのですか?」
 B氏「あなたに起きている結果は、『自分の大切なお子さんが、人から責められて困っている』ということです。考えられる原因は、あなたが『大切にすべき人を、責めてしまっている』ということです。感謝すべき人、それも身近な人を、あなた自身が責めているのではないですか? 一番身近な人といえば、ご主人に対してはどうですか?」
 A子「主人には感謝しています。トラックの運転手として働いてくれているおかげで、家族が食べていけてるのですから。
 B氏「それは何よりです。では、ご主人を大切にしておられますか?尊敬しておられますか?」
 A子は、「尊敬」という言葉を聞いたときに、ギクッとした。
 A子は、日ごろから夫のことを、どこか軽蔑しているところがあったからだ。
 A子から見て、楽観的な性格の夫は、「思慮の浅い人」に見えた。
 また、「教養のない人」にも見えた。
 たしかに、A子は四年制の大学を卒業しているが、夫は高卒である。
 また、それだけではなく、夫は言葉ががさつで、本も週刊誌くらいしか読まない。
 読書が趣味のA子としては、息子に、「夫のようになってほしくない」という思いがあったのだ。
 A子は、そのこともB氏に話した。

B氏「『人間の価値は教養や知識や思慮深さで決まる』と思っておられますか?」
 A子「いえ、決してそんなふうには思いません。人それぞれ強みや持ち味があると思います」
 B氏「では、なぜご主人に対して、『教養がない』ことを理由に軽蔑してしまうんでしょうね。」
 A子「うーーーん。私の中に矛盾がありますね。」
 B氏「ご主人との関係は、どうなんですか?」
 A子「主人の言動には、よく腹が立ちます。喧嘩になることもあります。」
 B氏「息子さんの件で、ご主人とはどうですか?」
 A子「息子がいじめられていることは、いつもグチっぽく主人に言っています。ただ、主人の意見やアドバイスは受け入れられないので、主人にちゃんと相談したことはありません。おそらく、私にとって主人は、一番受け入れられないタイプなんだと思います。」

B氏「なるほど。もう一つ根本的な原因がありそうですね。ご主人を受け入れるよりも前に、そっちを解決する必要があります。」
 A子「根本的な原因ですか?」
 B氏「はい、あなたがご主人を受け入れることができない根本的な原因を探る必要があります。ちょっと伺いますが、ご自分のお父様に感謝しておられますか?」
 A子「えっ? 父ですか? そりゃもちろん感謝してますが・・・」
 B氏「お父様に対して『許せない』という思いを、心のどこかに持っていませんか?」

A子は、この「許せない」という言葉にひっかかった。
 たしかに自分は父を許していないかもしれない、そう思った。
 親として感謝しているつもりであったが、父のことは好きになれなかった。
 結婚して以降も、毎年の盆・正月は、実家に顔を見せに家族で帰っている。
 しかし、父とは、ほとんど挨拶ていどの会話しかしていない。
 思えば、高校生のころから、父とは他人行儀な付き合いしかしてこなかった。
 A子「父を許してないと思います。だけど、父を許すことはできないと思います。」
 B氏「そうなんですね。じゃあ、ここまでにしますか? お役に立てなかったとしたら、申し訳ありません。それとも、何かやってみますか?」
 A子「私の悩みの原因が、本当に父や主人に関係しているんでしょうか?」
 B氏「それは、やってみたらわかると思いますよ。」
 A子「わかりました。何をやったらよいか教えてください。」
 B氏「では、今から教えることをまずやってみてください。お父様に対する『許せない』という思いを存分に紙に書きなぐって下さい。怒りをぶつけるような文書で。『バカヤロー』とか『コノヤロー』とか『大嫌い!』とか、そんな言葉もOKです。具体的な出来事を思い出したら、その出来事も書いて、『その時、私はこんな気持ちだったんだ』ってことも書いてみてください。恨みつらみをすべて文章にして、容赦なく紙にぶつけてください。気がすむまでやることです。充分に気がすんだら、また電話下さい。携帯の番号も教えておきます。」

A子にとって、そのことが、息子の問題の解決に役立つのかどうかは疑問だった。
 しかし、それを疑って何もしないよりも、可能性があるならやってみようと思った。
 A子は、「今の悩みを解決できるなら、どんなことでもしよう」と思っていた。
 それに、B氏の話には、根拠はわからないが、不思議な説得力を感じた。

A子は電話を切ると、レポート用紙を持ってきて、父に対する思いを、思いつくままに書き始めた。

自分が子どものころは、なにかと口やかましい父だった。
 夕食が説教の時間になることも多かった。
 また、子ども達(A子と兄弟)が自分の思い通りにならないと、すぐに大声で怒鳴りつける、そんな父だった。

「お父さんは、私の気持ちなんか興味ないんだ!」と、そう思うことも多かった。
 お酒を飲んだ時に、仕事のグチを言うところもイヤだった。
 また、建設会社で現場監督をしていた父は、砂や土で汚れた仕事着で帰って来て、そのまま食事をすることが多かったが、それもイヤだった。

A子は、父に対しての気持ちを文章にしていった。
 気がついたら、父に対して「人でなし!」とか「あんたに親の資格なんかない!」とか、かなり過激な言葉もたくさん書いていた。
 ある出来事も思い出した。
 自分が高校生のころ、クラスメイトの男の子と日曜日にデートをしたことがあった。

その男の子と歩いているところを、たまたま父に目撃され、後で問いただされて説教されたことがあった。両親には、「女の子の友達と遊ぶ」と嘘をついていたのだが、父はその嘘を許せないようだった。その時の、父の言葉は今も覚えている。
 「親に嘘をつくくらい後ろめたい付き合い方をしているのか! お前は、ろくな女にはならん!」
 思い出しているうちに悔し涙が出てきた。

悔しさも文章にした。
 「お父さんがそんな性格だから、嘘もつきたくなるんでしょ! 自分に原因があることも分からないの? それに『ろくな女にならない』って、なんてひどい言葉なの。私がどのくらい傷ついたか知らないんでしょう! あんたこそ、ろくな親じゃない!

あれから私は、お父さんに心を開かなくなったのよ。自業自得よ!」
 書きながら、涙が止まらなかった。
 気がついたら、正午を回っていた。
 書き始めて2時間近く経っていた。
 十数枚のレポート用紙に、怒りを込めた文章が書きなぐってあった。
 容赦なく書いたせいか、それとも、思いっ切り泣いたせいか、気持ちがずいぶん軽くなっていた。

A子は、午後1時を回ったところで、B氏に電話をした。
 B氏「お父様をゆるす覚悟はできましたか?」
 A子「正直なところ、その覚悟まではできていないかもしれません。だけど、できることは何でもやってみようと思います。ゆるせるものなら、ゆるして楽になりたいとも思います。」

B氏「では、やってみましょう。お父様をゆるすのは、他でもない、あなた自身の自由のためにゆるすんです。紙を用意してください。そして、上の方に『父に感謝できること』というタイトルを書いてください。さて、お父様に対して感謝できるとしたら、どんなことがありますか?」
 A子「それは、まず、働いて養ってくれたことですね。父が働いて稼いでくれたおかげで、家族も食べていけたわけですし、私も育ててもらえたわけです。」
 B氏「それを紙に書き留めて下さい。他にもありますか?」
 A子「うーーーん。私が小学生のころ、よく公園に連れていって遊んでくれましたね。」
 B氏「それも書き留めておいて下さい。他には?」
 A子「それくらいでしょうか。」
 B氏「では、別の紙を用意して『父に謝りたいこと』ってタイトルを書いてください。さて、お父様に謝りたいことは、何かありますか?」
 A子「特に浮かびませんが、あえて言えば、『心の中で反発し続けたこと』でしょうか。

ただ、心から謝りたいという気持ちにはなれませんが。」
 B氏「実感がともなわなくてもOKです。形から入りますから。とりあえず、今おっしゃったことを書き留めてください。」
 A子「書き留めました。で、形から入るといいますと、何をやればいいのですか?」
 B氏「いいですか、今から勇気の出しどころです。もしかしたら、あなたの人生で一番勇気を使う場面かもしれません。私が提案することは、あなたにとって、最も抵抗したくなる行動かもしれない。実行するかどうかは自分で判断して下さいね。今から、お父様に電話をかけて、感謝の言葉とあやまる言葉を伝えるのです。実感が湧いてこなかったら、用意した言葉を伝えるだけでもOKです。『父に感謝できること』と『父にあやまりたいこと』の2つの紙に書き留めたことを、読んで伝えるだけでOKです。伝えたら、すぐに電話を切ってもらってかまいません。やってみますか?」
 A子「・・・・・。たしかに、今までの人生で使ったことがないくらい、勇気を使わないとできませんね。でも、これが私の悩みの解決に役立つなら、それだけの勇気を使う価値はあるんだ思います。だけど、難しいですねー。」
 B氏「やるかやらないかは、ご自分で決めてくださいね。私も、一生に一度の勇気を使う価値はあるとおもいますけど。それから私は、次の予定がありますので、このあたりで失礼します。もし実行されたらご連絡下さい。次のステップをお教えします。」

A子にとって救いなのは、「形だけでいい」ということだった。
 「謝る」ということについては、気持ちがともなわない。
 「悪いのは父親の方だ」という思いがあるから、自分が謝るのは筋違いだと思う。
 だけど、書き留めた文章を棒読みするくらいならできそうだ。
 それならば、やってみた方がいいに決まっている、と思えた。
 A子は「電話をかけよう」という気になってきた。
 そして、電話をかけようとしている自分が、不思議だった。
 こんなきっかけでもなかったら、A子が父親と電話で話すということは、一生なかったかもしれない。
 結婚して間もないころは、実家に電話をして父が電話に出たときは、すぐさま「私だけど、お母さんにかわって」と言っていた。しかし今は、「私だけど」と言っただけで、父の「おーい、A子から電話だぞ」と母を呼ぶ声がする。父も「A子から自分に用事があるはずない」ということわかっているのだ。

しかし、今日は電話で父と話すのだ。
 「躊躇していたら、ますます電話をかけにくくなる」と思ったA子は、意を決してすぐに電話をかけた。
 電話に出たのは、母だった。

A子「私だけど」
 母「あら、A子じゃない。元気にしてる?」
 A子「うん、まあね。・・・ねえお母さん、お父さんいる?」
 母「えっ? お父さん? あなたお父さんに用なの?」
 A子「う、うん。ちょっとね。」
 母「まあ、それは珍しいことね。ねえ、お父さんに何の用なの?」
 A子「えっ? えーと、ちょっと変な話なんだけど説明するとややこしいから、お父さんにかわってくれる?」
 母「わかった、ちょっと待ってね。」

父が出てくるまでの数秒間、A子の緊張は極度に高まった。
 すっと父のことを嫌ってきた。父に心を開くことを拒んできた。その父に、感謝の言葉を伝え、あやまるのだ。ふつうに考えて、できっこない。
 しかし、息子のことで悩みぬいたA子にとって、その悩みが深刻であるがゆえに、ふつうだったらできそうにない行動を取っているのだった。もしも、その悩みから解放される可能性があるなら、わらにもすがりたいし、どんなことでもする。その思いが、A子を今回の行動に向かわせたのだ。

父「な、なんだ? わしに用事か?」
 A子は、自分では何を言っているかわからないくらいパニックしながら話し始めた。
 A子「あっ、あのー、私、今まで言わなかったんだけど、言っといたほうがいいかなーと思って電話したんだけど、・・・えーと、お父さん、現場の仕事けっこう大変だったと思うのよ。お父さんが頑張って働いてくれて、私も育ててもらったわけだし。あのー、私が子どものころ、公園とかも連れて行ってくれたじゃない。なんていうか、『ありがたい』っていうか、感謝みたいなこと言ったことないと思うのよ。それで、一度ちゃんと言っておきたいなと思って、・・・。それから私、心の中で、けっこうお父さんに反発してたし、それもあやまりたいなと思ったの。」
 ちゃんと「ありがとう」とは言えなかったし、「ごめんなさい」とも言えなかった。
 だけど、言うべきことは一応伝えた。

父の言葉を聞いたら、早く電話を切ろう。そう思った。
 しかし、父から言葉が返ってこない。
 『何か一言でも言ってくれないと、電話が切れないじゃない』
 そう思った時に、受話器から聞こえてきたのは、母の声だった。

母「A子! あなた、お父さんに何を言ったの?」
 A子「えっ?」
 母「お父さん、泣き崩れてるじゃないの! 何かひどいこと言ったんでしょ!」
 受話器から、父が嗚咽する声が聞こえてきた。A子はショックで呆然とした。
 生まれて以来、父が泣く声を一度も聞いたことはなかった。父はそんな強い存在だった。その父のむせび泣く声が聞こえてくる。自分が形ばかりの感謝を伝えたことで、あの強かった父が嗚咽しているのだ。父が泣く声を聞いていて、A子の目からも涙があふれてきた。
 父は私のことをもっともっと愛したかったんだ。
 親子らしい会話もたくさんしたかったに違いない。だけど私はずっと、父の愛を拒否してきた。父は寂しかったんだ。仕事でどんなに辛いことがあっても耐えていた強い父が、今、泣き崩れている。娘に愛が伝わらなかったことが、そんなに辛いことだったんだ。
 A子の涙も嗚咽へと変わっていった。

しばらくして、また母の声。

母「A子! もう落ち着いた? 説明してくれる?」
 A子「お母さん、もう一度、お父さんにかわってくれる?」
 父が電話に出る。
 父「(涙声で)A子、すまなかった。わしは、いい父親じゃなかった。お前にはいっぱいイヤな思いをさせた。うっ、うっ、うっ、(ふたたび嗚咽)」
 A子「お父さん。ごめんなさい。私こそ悪い娘でごめんなさい。そして、私を育ててくれてありがとう。うっ、うっ、うっ(ふたたび嗚咽)」
 少し間をおいて、再び母の声。
 母「何が起きたの? また、落ち着いたら説明してね。一旦、電話切るよ。」
 A子は、電話を切ってからも、しばらく呆然としていた。

20年以上もの間、父を嫌ってきた。
 ずっと父を許せなかった。
 自分だけが被害者だと思っていた。
 自分は父の一面だけにとらわれて、別の面に目を向けようとはしなかった。
 父の愛、父の弱さ、父の不器用さ、・・・これらが見えていなかった。
 父はどれだけ辛い思いをしてきたんだろう。
 自分は父に、どれだけ辛い思いをさせてきたんだろう。
 いろいろな思いが巡った。
 「まずは、形から入ればOKです。気持ちは、ついてきますから。」と言ったB氏の言葉の意味が、ようやく分かりかけてきた。
 「あと1時間くらいで、○○○(息子)が帰ってくるな」
 そう思った時に、電話が鳴った。

出てみるとB氏であった。
 B氏「どーも、Bです。今、40〜50分くらい時間ができたので電話しました。さっきは、次の予定が入ってたので、お話の途中で電話を切ったような気がしまして。」
 A子「実は私、父に電話したんです。電話して本当によかったです。ありがとうございました。Bさんのおかげです。」
 A子は、父とどんな話をしたかを簡単に説明した。
 B氏「そうでしたか。勇気を持って行動されて、よかったですね。」
 A子「私にとって、息子がいじめられてることが最大の問題だと思っていましたが長年父を許していなかったことの方が、よほど大きな問題だったという気がします。息子の問題のおかげで父と和解できたんだと思うと、息子の問題があってよかったのかな、という気すらします。」
 B氏「息子さんについてのお悩みを、そこまで前向きに捉えることができるようになったんですね。潜在意識の法則というのがありましてね、それを学ぶと次のようなことがわかるんです。実は、人生で起こるどんな問題も、何か大切なことを気づかせてくれるために起こるんです。つまり偶然起こるのではなくて、起こるべくして必然的に起こるんです。ということは、自分に解決できない問題は決して起こらないのです。起きる問題は、すべて自分が解決できるから起きるのであり、前向きで愛のある取り組みさえすれば、後で必ず『あの問題が起きてよかった。そのおかげで・・・』と言えるような恩恵をもたらすのです。」
 A子「そうなんですね。ただ、息子の問題自体は何も解決していないので、それを思うと不安になります。」
 B氏「息子さんのことは、まったく未解決なままだと思っておられるんですね。もしかしたら、解決に向けて大きく前進されたのかもしれませんよ。心の世界はつながっていますからね。原因を解決すれば、結果は変わるしかないのです。」
 A子「本当に息子の問題は解決するんでしょうか?」
 B氏「それは、あなた次第だと思いますよ。さて、ここで少し整理してみましょうか。あなたにとって、息子さんのことで一番辛いのは、息子さんが心を開いてくれないことでしたね。親として、何もしてやれないことが情けなくて辛いとおっしゃいましたね。その辛さをこれ以上味わいたくないと。」
 A子「はい、そうです。いじめられてることを相談もしてくれない。私は力になりたいのに、『ほっといて!』って拒否されてしまう。無力感を感じます。子どもの寂しさが分かるだけに、親として、何もしてやれないほど辛いことはありません。」
 B氏「本当に辛いことでしょうね。ところで、その辛さは、誰が味わっていた辛さなのか、もうお解かりですよね。」
 A子「えっ? 誰がって・・・(しばらく沈黙)」

その時、A子の脳裏に父の顔が浮かんだ。
 そうか!この耐えがたい辛さは、長年父が味わい続けたであろう辛さだ。
 娘が心を開いてくれない辛さ。
 娘から拒否される辛さ。
 親として何もしてやれない辛さ。
 私の辛さといっしょだ。
 この辛さを、父は20年以上も味わい続けたのか。
 A子のほほを涙が伝った。
 A子「わかりました。私は、私の父と同じ辛さを味わっていたんですね。こんなに辛かったんですね。父が嗚咽したのも分かります。」
 B氏「人生で起こる問題は、私たちに大事なことを気づかせるべく起こるんです。」
 A子「あらためて父の辛さが解かりました。息子のおかげで、解かることができたんだと思います。息子が私に心を開いてくれなかったおかげで。」
 B氏「息子さんもお父様もあなたも、心の底ではつながっています。お父様に対するあなたのスタンスを、あなたに対して息子さんが演じてくれたのです。そのおかげで、あなたは気づくことができた。」
 A子「息子にも感謝したいです。『大事なことに気づかせてくれて、ありがとう』って気持ちです。今まで、『どうしてお母さんに話してくれないの?』って心の中で息子を責めていました。」
 B氏「今なら、息子さんの気持ちも理解できますか?」
 A子「そうか! 私が子どものころ、口うるさい父がイヤでした。いろいろ口出ししてきたりするのがイヤでした。今考えてみれば、それも父の愛情からだったんでしょうが、当時は負担でしたね。今、息子も同じ思いなんだと思います。私の押し付けがましい愛情が負担なんだと思います。」
 B氏「あなたが子どものころ、本当はお父さんに、どんな親でいてほしかったんでしょうね?」
 A子「私を信頼してほしかった。『A子なら大丈夫!』って信頼してほしかったです。
・・・(しばらく沈黙)。
 私、息子を信頼していなかったと思います。『私が手助けしないと、この子は問題を解決できない』と思っていました。それで、あれこれ問いただしたり、説教したり、・・・。もっと息子を信頼してあげたいです。」
 B氏「あなたは、お父様の辛さも理解し、息子さんの辛さも理解されましたね。では次に、ご主人とのことに移りましょう。朝お電話をいただいた時に、『あなたの大切な息子さんが人から責められてしまう原因は、あなたが身近な誰かを責めてしまっていることです』とお話したのを覚えていますか?」
 A子「はい、覚えています。主人を尊敬できないという話をしました。」
 B氏「ではもう一度、ご主人に対してどんなふうに感じておられるか、話してもらえますか?」
 A子「どうしても、主人に対して、『教養のない人』とか『思慮の浅い人』というふうに見てしまうんです。息子のことにしても、私がこれだけ悩んでるのに、根拠なく楽観的なんです。それで主人に対しては、グチこそはぶつけますが、ちゃんと相談したりすることはありません。主人がアドバイスなどしてきても受け付けられないんです。」

ここまで話しながらA子は、自分の夫に対するスタンスが、父親に対して取ってきたスタンスに似ていることに気がついた。
 A子「私が父に対して取ってきたスタンスと似てますね。」
 B氏「そうなんです。女性の場合、父親に対してとってきたスタンスが、ご主人に対してのスタンスに投影されることが多いんです。ところで、お聞きしていると、ご主人は息子さんのことを信頼されているようですね。」
 A子「あっ、そうですね!そうか、主人のそういうところを見習うべきだったんですね。息子は主人に対しては、けっこう本音を言っているみたいなんです。息子は信頼されてると思うから、主人には心を開くんですね。私は主人のよいところをまったく見ていませんでした。」
 B氏「なるほど、そんなことを感じられたんですね。さて、では宿題を差し上げます。やるかどうかは自分で決めてくださいね。今日の午後、『父に感謝できること』と父に謝りたいこと』という2種類の紙を作ってもらいましたよね。その紙に、お父様に感謝できることと謝りたいことを、書き出せるだけ書き出して下さい。紙は何枚使ってもOKです。それが終わったら、もう一つ紙を用意してください。その紙のタイトルは、『父に対して、どのような考え方で接したらよかったのか?』です。これは過去のお父様との関係を後悔するために書くのではありません。これからのご主人との接し方のヒントが見つかるはずです。そしてもう一つ、息子さんが夜眠られたら、息子さんの寝顔を見ながら、心の中で息子さんに『ありがとう』を100回ささやきかけてください。どうですか、やってみたいですか」
 A子「はい、必ずやってみます。」

電話を切って間もなく、息子が帰ってきた。
 息子はランドセルを玄関に投げると、いつものようにグローブとボールを持って、公園に行った。
 『昨日、友達に追い出されたというのに、この子は、また公園に行くの?』A子の心は心配な気持ちでいっぱいになった。A子は、その心配な気持ちをまぎらわすように、宿題に取りかかった。

父に対して感謝できることがたくさん思い浮かんだ。
 ・現場監督のきつい仕事を続けて、家族を養ってくれた。
 ・私が子どものころ、夜中に高熱を出したことが何度かあったが、その都度、車で救急病院まで連れて行ってくれた。(肉体労働していた父にとって、夜中はしんどかったはず)
 ・私が子どものころ、よく海や川に連れて行ってくれて、泳ぎを教えてくれた。
 ・子どものころ私はメロンが好きだったが、毎年の私の誕生日には、メロンを買って帰って来てくれた。
 ・子どものころ近所のいじめっ子にいじめられていたことがあったが、その子の家に抗議しに行ってくれた。
 ・私は私立大学に入ったが、文句を言わず学費を出してくれた。(当時のわが家にとって、大きな負担だったはず)
 ・私の就職先が決まった時に寿司を出前で取ってくれた。(とても豪華な寿司だった。その時私は「寿司は好きじゃない」と言って食べなかった。父はしょんぼりしていた)
 ・嫁入り道具に、高価な桐のタンスを買ってくれた。

「感謝したいこと」に連鎖して「謝りたいこと」も浮かんできた。
 「感謝したいこと」と「謝りたいこと」を書きながら、涙が浮かんできた。
 「私は、こんなにも愛されていた。反発する私を、愛し続けてくれていたんだ。許せないという思いにとらわれていたから、その愛に気づかなかったんだ。そして、こんなにも愛してもらいながら、私は父に何もしてあげてない。親孝行らしいこともほとんどしていない。」

自分が父親の仕事を尊敬していなかったことにも気づいた。
 父親の現場監督の仕事に対して、「品がない」とか「知的でない」とか思っていた。
 父親が仕事を頑張り続けてくれたおかげで、自分は大学まで行かせてもらえたのに。
 そのことを初めて気づいた。父親の仕事に対して、尊敬心と感謝を感じた。そして今、自分の夫の仕事に対して、「知的でない」というイメージを持っている。

自分の夫に対する「教養がない」という嫌悪感をともなうイメージは、父に対して持っていたイメージとそっくりである。自分は、夫に対しても感謝できることがたくさんあるはずだ。そんなことを考えながら、続いて、「父に対して、どのような考え方で接したらよかったのか?」というタイトルの紙を用意した。

これについては、すぐに文章が浮かんできた。
 「父の言動の奥にある愛情に気づくこと。自分が不完全な人間であるように、父も不完全で不器用な人間であることを理解すること。してもらっていることに感謝をすること。愛してもらうだけではなくて、自分から愛すること(父を喜ばそうとすること)。そしてその上で、イヤなことはイヤと伝えて、おたがいが居心地いい関係を築くこと。」
 これはまさに、これから夫に対してするべき考え方だ、と思った。

働いてくれている夫。
 自分の人生のパートナーでい続けてくれている夫。
 自分は夫に対して感謝することを忘れていた。
 夫に対して、こんなに素直な考え方ができるのは初めてかもしれない。
 これは父に感謝できたことと関係があるのかもしれない。
 今日は夫に感謝の言葉を伝えよう。そんなことを考えているうちに、外が薄暗くなりかけていることにA子は気がついた。

思えば、今日は家事らしきことをほとんどしていない。
 朝の9時ごろB氏に電話してから、1日中自分と向き合っていた。
 「晩ご飯の用意、どうしよう?」
 そう思った時に、息子が帰ってきた。

息子「ねえ、お母さん聞いてよ!」
 A子「どうしたの?何かいいことあったの?」
 息子「C君知ってるでしょ。実は昨日、C君に公園でボールぶつけられたんだ。」
 A子「あっ、あー、そうなの。C君って、あなたを一番いじめる子だよね。」
 息子「さっき公園から帰ろうとしたらC君が公園に来てさー。で、『いつもいじめててごめんな』って言ってくれたんだ。」
 A子は「そうだったの!」と言いながら、まるで奇跡でも体験しているような気持ちになった。そして、心から感謝の気持ちが湧いてきたのだった。A子は、夕食の準備をするより息子と話そうと思い、出前を取った。出前が届くまでの間、A子は息子に次のようなことを伝えた。

「今まで、あなたのことに口出しをし過ぎてごめんね。これからは、なるべく口やかましくしないように気をつけるからね。そして、お母さんの助けが必要な時は、いつでも遠慮なく相談してね。あなたのことを信頼してるからね。」
 息子は本当に嬉しそうな顔をして、「わかった、ありがとう」と答えた。
 やはり息子は、母親に信頼してもらいたかったのだ。
 「今日は、なんか変だなー。いいことが続くなー。」と息子が続けた。
 A子も幸せな気持ちになった。

間もなく出前が届いた。
 A子「お母さんは、お父さんが帰ってくるのを待つから、先に食べてね。」
 息子「えっ? どうしたの? いつもは先に食べるのに。」
 A子「今日は、お父さんといっしょに食べたい気分なのよ。お父さん、お仕事頑張ってくれて、疲れて帰ってくるからね。一人で冷めた親子丼たべるの、寂しいでしょ。」
 息子「じゃー、僕もお父さんといっしょに食べる!三人で食べる方が楽しいでしょ。」
 A子「ほんとうにあなたは優しい子ね。お父さんに似たのね。」
 息子「なんか変だなー。いつもお父さんのことを、『デリカシーがない』とか言ってるのに。」
 A子「そうよね。お母さんが間違ってたのよ。お父さんは、優しくて男らしくてたくましくて、・・・男の中の男よ。」
 息子「勉強しないと、お父さんのような仕事くらいしかできなくなっちゃうんでしょ?」
 A子「ごめんね、それもお母さんが間違ってたのよ。お父さんの仕事は立派な仕事。世の中の役に立ってるのよ。それに、お父さんが働いてくれてるおかげで、こうやってご飯食べたりできるんだからね。お父さんの仕事に感謝しようね。」
 息子「お母さん、本当にそう思う?」
 A子「うん、思うよ。」
 A子がそう言った時の息子の笑顔は、その日で一番嬉しそうな笑顔だった。

子どもは本来、親を尊敬し、親をモデルして成長する。
 A子の言葉は、息子に対して、「お父さんを尊敬してもいいよ」という許可を与えたことになる。息子はそのことが何よりも嬉しかったのだ。

しばらくして夫が帰って来て、三人で冷めた親子丼を食べた。
 自分の帰りを待っていてくれたことが嬉しかったのか、夫も上機嫌だった。
 冷めた親子丼を「うまい、うまい」と言いながら食べていた。

夫が風呂に入っている間に、息子が眠りについた。
 A子は息子の寝顔を見ながら、心の中で「ありがとう」を唱え始めた。
 その言葉の影響なのか、心の底から感謝の気持ちが湧いてきた。
 『この子のせいで私は悩まされてると思ってきたけど、この子のおかげで大切なことに気づけた。本当は、この子に導かれたのかもしれない。』
 そう思っていると、息子が天使のように見えた。いつの間にか、涙があふれてきた。(ほんとに今日は、よく泣く日である)

間もなく電話が鳴った。出てみるとFAXであった。
 母の字で次のようなことが書いてあった。

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A子へ
今日のことお父さんから聞きました。
お父さん、話しながら泣いていました。
お母さんも嬉しくて涙が出ました。
お父さんは、「70年間生きてきて、今日が一番嬉しい日だ」と言っています。
晩ご飯の時に、いつもお酒を飲むお父さんが、「酒に酔ってしまって、この嬉しい気持ちが味わえんかったらもったいない」と言って、今日はお酒を飲みませんでした。
次は、いつ帰ってきますか。
楽しみにしています。
母より
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「晩酌を欠かしたことがない父が、お酒を飲まなかったなんて。」
 自分が伝えた言葉が、父の心をどんなにか幸せな気持ちで満たしたのであろう。
 A子の目からは、またもや涙があふれていた。

「どうした?泣いてるのか?」
 風呂から出てきた夫が聞いてきた。
 A子は、その日起きたことをすべて話した。
 朝、B氏に電話をかけたこと。
 午前中は、父への恨みつらみを紙に書きなぐったこと。
 午後、父に電話して和解したこと。
 「そうか、お父さんも泣いてはったか。」
 夫も、目に涙を浮かべながら聞いてくれた。
 そして、息子がいじめっ子から謝られたこと。
 「ふーん、不思議なこともあるもんやな。Bさんのやり方は、俺にはよくわからんけど、おまえも楽になったみたいでよかったな。」
 続けてA子は、泣きながら夫に謝った。
 そして夫も、泣きながら聞いたのだった。

次の日、A子はB氏に報告して、心からのお礼を伝えた。
 朝一番で夫からも電話を入れていたようだ。
 B氏「ご主人からも電話もらいました。お役に立てて何よりです。あなたの勇気と行動力を尊敬します。さて、これからが大切です。毎日、お父さまとご主人と息子さんに対して、心の中で『ありがとうございます』という言葉を100回ずつ唱える時間を持って下さい。」

その日の夕方のことである。
 「ただいま!」元気な声で息子が帰って来た。
 「お母さん、聞いて! 今日ね、友達から野球に誘われたんだ! 今から行ってくるから!」
 息子はグローブを持って飛び出していった。A子の目には、またもや涙がにじんでいた。声が詰まって、「行ってらっしゃい」の一言が言えなかった。

(THE END)


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