「真珠湾の真実」
ルーズベルト欺瞞の日々(文藝春秋刊)
 ロバート・B・スティネット (著), 妹尾 作太男 (翻訳)

"DAY OF DECEIT"
THE TRUTH OF F.D.R. AND PEARL HARBOR
 by ROBERT B. STINNETT (FREE PRESS)


◆第8章 紛れもない前兆

 真珠湾に対する、明白な攻撃の前徴が見過ごされたのは、過失によるものか、それとも意図的なものだったのだろうか。あれから五十年経った今、その動機を明らかにすることは難しい。たとえアンダーソン、マッカラム、ロシュフォート、メイフィールドなどが、日本の攻撃を挑発するための全般的な政策決定……理性的でなかったとは一概に言えない……に従って行動していたとしても、傍受した森村の暗号電報の原本がどのように取り扱われたのか、それを知る術はない。
 しかし、より多くの証拠を集めて、それから一つのパターンを探すことはできる。日本の戦争準備は、ルーズベルト大統領が一九四一年七月に、マッカラムの戦争挑発行動八項目の最後の手段をとってから明確な展開を見せた。最後の手段H項目とは、英帝国が押し つける通商禁止と歩調を合わせた、アメリカの同様な日本に対する全面的な貿易禁止であった。
 七月初旬から夏の終わりまでに傍受された日本の外交暗号電報により、ルーズベルトには日本の反応が明らかとなった。すぐに手応えがあり、戦闘行為が遠くないことを示唆する、次の三つの思い切った新しい措置がとられた。すなわち、
 (一)日本人青年五十万人が徴兵された。これは一九三七年の盧溝橋事件以来、最大規模であった。
 (二)日本の商船が世界中の海域から呼び返された。
 (三)日本の艦艇と航空隊が中国の占領基地から呼び返された。
 日本軍と中国国民党総統蒋介石軍とが北京郊外の盧溝橋で衝突して、一九三七(昭和十二)年、支那事変が始まった。日本軍は三十七年前に発生した北清事変(義和団の乱)の 協定により、北京に駐屯していた。日本駐屯部隊の存在が目障りとなり、蒋介石軍と毛沢東の率いる共産軍とが結びついた。彼らは日本軍を中国北部から追い出そうとした。一九三七年七月七日、蒋介石軍のある中隊と中国駐屯日本軍部隊の間で発砲事件が起こり、これが大事変に発展した。その後、四年間以上も続く日中戦争中、アメリカの世論は日本よりも中国に味方した。日本当局は中国北部の共産主義者の脅威をアメリカに説いて自らの大義を擁護しようとしたが、アメリカから拒絶された。
 一九四一年の夏の間、日本の外交暗号電報を読んでいたルーズベルト大統領は戦争挑発行動「H」に対する日本の反応を判断することができたろう。その夏、日本がとった三つの思い切った措置は、日本が武力行為に訴える準備をしていることを確認させた。松岡洋右外相が一九四一年一月に初めて提示した和解案は「最悪の政策」と酷評されているが、これが採用される可能性はまだ残っていた。松岡は、和解を日本の第一希望とし、アメリカ及び連合国との戦争は最後の手段とし、万一の場合にのみ用いる手段としたい考えを示した。しかし、外交的解決をはかることは、ルーズベルトの戦略には含まれていなかった。外交的解決をはかる代わりに、ルーズベルトは経済制裁を強化し、「最悪の政策」を促進させることになる。一九四一年七月、日本船舶のパナマ運河通過を禁止し、日本の在米資産を凍結し、石油製品、鉄鋼、金属類の日本への輸出を完全に禁止した。これらの諸制裁が、日本の軍事政権を激怒させることは間違いなかった。一九四〇年にも禁輸措置が取られたが、実際は、大量の石油製品が日本へ輸出されていた。今回はそうはいかなかった。ルーズベルトはマッカラム覚書のH項目どおり、日本との貿易をいっさい禁止したのである。無線監視局HYPOの局長ジョセフ・ロシュフォートは、今回の全面的禁輸措置を最後通牒とみた。日本には戦争しか選択肢が残されていなかった。
 「われわれは彼らの資金も燃料も貿易も断ち、日本をどんどん締めあげている。彼らには、この苦境から抜け出すには、もう戦争しか道は残されていないのが、わかるだろう」
 ハワイでも首都ワシントンでも危険を感じた。ホノルルではアドバタイザー紙の編集部が、太平洋の上空に戦争の兆しを察知して、真珠湾が空襲を受ける可能性があるとの特集記事を一九四一年七月二十五日付紙面に掲載した。記事には、攻撃後の様子を示す図が一緒に掲載された。
 ワシントンでは両洋艦隊法案と、その予算支出法案とが議会を通過した。そして一九四一年夏までには、米国各地の造船所で軍艦の建造が開始された。一九四一年当時の米海軍兵力は日本海軍と比較して劣っていた。アメリカは航空母艦を七隻持っていたが、日本は十隻保有していた。米海軍の空母レインジャーは高速での運動性能に欠け、第一線級の空母とは考えられていなかった。建艦予算とその建造契約とは航空母艦約百隻を中心とした強力なアメリカ海上兵力の建設を請け負わせるためであった。両洋艦隊を建設しようとする海軍の目標は天晴れなものであったが、米国海上兵力整備の第一段階が完成するのは早くて一九四三年、つまりほとんど二年後のことであった。
 経済制裁の強化により石油を積載できなくなった日本のタンカーは、カリフォルニアの精油所から本国に向け引き揚げた。しかし、日本には石油がないわけではなかった。前年の一年間にわたる石油の禁輸政策では、ホワイトハウスが、石油の輸出を許可したので、日本は艦船を運航するのに十分な燃料を入手することができた。石油の備蓄の大半は瀬戸内海に臨む徳山海軍燃料廠に貯えられた。アメリカは全く意図的に日本を、戦うには十分だが勝利を収めるには足りない燃料しか保有させなかった。日本にとって残る手段は一つしかなく、つまりそれは武力に訴えて石油を入手することであった。
 一九四一年、日本は平時の使用量として年間三百五十万トンの石油が必要で、その内訳は海軍に二百万トン、陸軍に五十万トン、民間に百万トンが割り当てられた。マクソン大尉によると、一九四一年七月の時点で、日本は平和時であれば二年分に相当する七百万トンの石油を保有していた。
 それはアメリカが考え出した(対日戦実施の)時刻表であった。一九四三年、日本の石油備蓄量が底をつく時、アメリカの軍需生産は本格的に稼動しており、アメリカは攻撃作戦をとることができるという計算である。
 この時刻表はアメリカの戦略に関するかぎり、申し分ないものだった。議会は両洋艦隊を承認して、予算もつけた。一九四一年の時点では、日本が第一線級の空母十隻を保有しているのに対してアメリカは七隻と、軍艦の隻数の点では日本が優位に立っていたが、一九四一年半ばには、アメリカ各地の造船所で、のちに空母百隻艦隊となる建艦計画が実施に移されていた。この空母艦隊はエセックス級正規空母、インディペンデンス級軽空母、及び、「小型空母」と呼ばれた護衛空母で編成されることになる。
 九月一日までに、日本の戦争計画も急展開を見せていた。日本海軍は無線電報をとおして、その全般的な戦略と戦術をさらしてしまった。アメリカの暗号解読員たちは、日本が世界中の航路に対する商船の配船を大きく変更していることに気づいた。商船は一般に、運航指令は民間会社から受けるのであるが、この頃、指令を帝国海軍から受け始めた。同時に中国戦線に配備されていた日本軍のうち、意味ありげな数の艦艇と航空部隊とがオーバーホールと再編制のため、本国に呼び戻された。呼び戻された部隊から新しい遠征軍が編制され、上陸作戦の訓練が行われた。
 山本提督は東南アジアにある米英蘭三国の植民地を占領する作戦計画を立てていた。

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