小学館「SAPIO」 2002/02/27号 pp.82-84


生き証人 ■ 「大虐殺」を見た者は誰一人いなかった!
「南京事件」今改めて見直すべき
日本人48人の証言の「真実」

近現代史研究家 阿羅健一 ARA Kenichi   [PROFILE] 1944年生まれ。東北大学卒業。近現代史研究家として、現代アジア史を中心に研究を続ける。著書に『ジャカルタ夜明け前』(勁草書房)などがある。『「南京事件」日本人48人の証言』(小学館文庫)は1987年に出版された。『聞き書 南京事件』(図書出版社)に加筆、修正を加えたもの。

 1937年12月のいわゆる
「南京事件」をめぐり、日本軍
による大虐殺があったのか、な
かったのか、あったとするなら
その数は数千人なのか、それと
も中国側が主張するように30万
人なのか、「南京事件」は常に日
本、中国双方にとって出口の見
えない議論が続けられてきた。
近現代史研究家の阿羅健一氏は
当時、南京にいた日本人の生存
者に直接インタビューを試みた。
軍人からジャーナリストまで自
らの言葉で語った「南京」の証
言集(『「南京事件」日本人48人
の証言』小学館文庫)は当時の貴
重な資料である。この本が文庫
化されたことを機に改めて彼ら
48人の言葉から見えてくる「南
京事件」の真実を考える。
「日本人は本当にこんなことを
やったのか」
 私が「南京事件」のことを調
べだしたきっかけは、ごく素朴
な疑問だった。1982年(昭
和57年)、教科書問題が起こって
「南京事件」が一気に話題とな
った。事件に関する本は何冊か
あったが、情報は乏しく、中国
側の主張を聞いていると「本当
かもしれない」と思えてくる。
 私は当初は発表するつもりも
なく、とにかく「事実が知りた
い」という一念で、当時南京に
いた方々に話を聞き始めたのだ。
何十万という大虐殺が起こった
のか、私たちの祖父や父たちは
そんな残虐なことをしたのか、
そのとき南京にいた同胞にぜひ
とも尋ねたい……。日本人なら、
そう思い至るのではなかろうか。
 彼らの証言をつなぎあわせる
と、ジグソーパズルのように南
京の真実が浮かび上がってくる
と考えた。新聞記者、軍人の中
でも南京全体を把握していたと
思われる参謀、外交官。改めて
強調しておきたいのは、私はリ
ストも何もないところから、当
時の新聞に登場する方たちを探
して尋ね当てたということだ。
したがって彼らが「口裏を合わ
せる」ことは不可能である。参
謀ではない兵隊の方も含めれば、
数百人の方にお会いしただろう。
そして私は確信もって言える。
「南京大虐殺」と呼ばれるよう
な事件はなかった、と。

虐殺を作り上げたのは
「南京」を知らない記者

《証言 上海派遣軍参謀 大西
一氏
──上海派遣軍の中で虐殺があ
ったという話はおきませんでし
たか。
「話題になったことはない。第
二課も南京に入ってからは、軍
紀・風紀の取り締まりで場内を
廻っていました。私も車で廻っ
た」
――何も見ていませんか。
「一度強姦を見た」
――その他、暴行、略奪など見
ていませんか。
「見たことがない。私は特務機
関長として、その後一年間南京
にいた。(略)虐殺を見たことも
聞いたこともない)

1937年12月、日本軍は国民政府が首都としていた南京を占領した。(写真は12月17日南京に入場する日本軍)

 上海派遣軍は、南京占領後、
城内に軍司令部をおき、2月ま
でとどまった。大西氏は、軍人
の中では南京に一番詳しい人だ
といえるだろう。1971年、
本多勝一氏(当時、朝日新聞記
者)による朝日新聞の連載記事
「中国の旅」の中で「南京大虐
殺」が報じられた。大西氏は本
多氏に抗議した。しかし、本多
氏に「なかったという証拠を示
せ」と言われて、黙って帰るし
がなかったという。では朝日新
聞の記者は、占領時の南京をど
う見ただろうか。

《証言 東京朝日新聞記者 足
立和雄氏
――南京で大虐殺があったと言
われていますが、どんなことを
ご覧になっていますか。
「犠牲が全然なかったとはいえ
ない。南京に入った翌日だった
から、十四日だと思うが、日本
の軍隊が数十人の中国人を射っ
ているのを見た。塹壕を掘って
その前に並ばせて機関銃で射っ
た。場所ははっきりしていない
が、難民区ではなかった」
――そのほかにご覧になりまし
たか。
「その一か所だけです」
――大虐殺があったと言われて
いますが……。
「私が見た数十人を射ったほか、
多くて百人か二百人単位がほか
にもあったかもしれない。全部
集めれば何千人かになるかもし
れない」》
 足立氏は、退社後に朝日新聞
の紙面をにぎわすようになった
「南京大虐殺」について、さら
に率直に語ってくれた。
「非常に残念だ。先日も朝日新
聞の役員に会うことがあったの
でそのことを言ったんだが。大
虐殺はなかったことをね。朝日
新聞には親中共・反台湾、親北
朝鮮・反韓国という風潮がある。
本多君一人じゃなく、社会部に
そういう気運がある。だからあ
あいう紙面になる」
 終戦後約30年間、朝日新聞も
含めた大新聞は「南京大虐殺」
を記事にしなかった。これは、
足立氏のように従軍して南京に
行った記者が社に大勢残ってい
たからだ。若い記者が、虐殺が
あったという記事を書こうとし
ても、「俺はこの目で見てきたん
だ。南京でそんな虐殺などなか
った」となる。他社のジャーナ
リストも、朝日新聞の報道には
憤りを感じたという。

《証言 東京日日新聞(現・毎
日新聞)カメラマン 佐藤振寿

「(前略)十年ほど前にも朝日新
聞が『中国の旅』という連載で、
南京では虐殺があったといって
中国人の話を掲載しましたが、
その頃、日本には南京を見た人
が何人もいる訳です。何故日本
人に聞かないで、あのような都
合のよい嘘を載せるのかと思い
ました。当時南京にいた人は誰
もあの話を信じてないでしょう。
それ以来、私は自宅で朝日新聞
を購読するのをやめましてね」
――虐殺があったと言われてい
ますが……。
「見てません。虐殺があったと
言われていますが、(十二月)十
六、七日頃になると、小さい通
りだけでなく、大通りにも店が
出てました。また、多くの中国
人が日の丸の腕章をつけて日本
兵のところに集まってましたか
ら、とても残虐行為があったと
は信じられません」
――佐藤さんはなかったと言っ
ても、その時の写真(編集部注
・南京で佐藤氏が撮った写真)
には残虐行為という説明がつい
ていますね。
「ええ、写真は説明一つでどう
にでもなりますから。(後略)」
――南京事件を聞いたのはいつ
ですか。
「戦後です。アメリカ軍が来て
からですから、昭和二十一年か
二十二年頃だったと思いますが、
NHKに「真相箱」(真相はこう
だ 一九四五年十二月九日〜。
後に『真相箱』と改題。企画・
脚本・演出をGHQ民間情報局
が手がけたもの)という番組が
あって、ここで南京虐殺があっ
たと聞いたのがはじめてだった
と思います」》

 佐藤氏は、私が話を聞いた数
十人の中で最も記憶が鮮明であ
り、詳しい証言をしてくれた方
だ。佐藤氏に、「南京を見た人」
が社内にいるうちは、新聞社が
「南京大虐殺」を真実として書
く訳がなかったのだろうと確認
すると、「そうだ」とおっしゃっ
た。南京を見ている人が新聞社
からいなくなったのが、ほぼ昭
和40年代の半ば。その後『中国
の旅』のような記事が生まれた
わけだ。
 ここで紹介した証言にもある
ように、殺戮や暴行がまったく
なかったとは誰も言っていない。
ただし、戦時中であるから兵隊
を殺すのはあくまで「戦闘」だ。
また、戦場でなくとも犯罪はあ
る比率で起こるもので、当時の
南京でも、その程度のものだっ
たと推測される。もちろん、戦
争というのは異常な状態であり、
その比率は高かっただろう。し
かし、当時人口約25万人の南京
で、30万人もの人を殺したとは、
私が集めた証言からも到底考え
られないのだ。

「多大な犠牲者」が
「三十万人」という“事実”に

「南京大虐殺」は、「あった、な
かった」という事実関係を離れ、
政治問題化してしまっている。
政治家が「虐殺がなかった」な
どと言えば、たちまち日中問題
に発展する。そのような政治的
な関係で、「中国との友好は進め
たい。南京では何も見てないが、
『虐殺がなかった』とは証言で
きない」と言う方もいた。

《証言 新愛知新聞記者 南正
義氏(証言当時・東海ラジオ社
長)
――南京にはどの方向から行き
ましたか。
「中山門から入りました。(中
略)中山東路を進むと、街路樹
のプラタナスに日本兵が吊るさ
れていて大騒ぎになりました」
――日本兵がですか。
「そうです。後でわかったので
すが、通済門か光華門で戦いが
あり、そこで捕まった日本兵ら
しいのです。(中略)下から火で
あぶってありました」
――何体くらいですか。

南京が陥落した後の市内の様子。

「私が見たのは二、三体です」
――城内で虐殺らしきことは見
ていませんか。
「見てません。すべて戦闘です。
一部の兵隊がカーッとなってい
ることはありますが戦闘です」
――戦後南京に行ったとおっし
ゃっていますが、いつのことで
すか。
「(前略)名古屋市が南京市と姉
妹都市になって日中友好をやろ
うということになった。(中略)
東海ラジオでも友好のために何
かをやろうということになった
とき、私が率先して南京に行き
ました。(中略)日中友好ジョギ
ングをしょうという案を出して、
ジョギング大会を始めた。(中
略)私も去年Tシャツを着て南
京市長と走ったよ」
――南京に行って中国側から虐
殺のことを言われませんか。
「一度もない」》

 南氏は、当時「日中友好」を
進めていた関係で「(証言の)公表
は見合わせてほしい」というこ
とだった。南京市と名古屋市が
姉妹都市であるという関係から
すれば、南氏の要望はもっとも
だ。今回の文庫化がなければ、
南氏の証言も未発表のまま終わ
ったことだろう。
 1985年(昭和60年)、南京
虐殺記念館が設立された。ケ小
平が書いた「侵華日軍紀念館」と
いう看板があり、そのそばに「三
十万」という数字がある。中国
では、「三」という数字は「後宮
三千人」「白髪三千丈」というよ
うに、「多い」意味として使う。
いわば、犠牲者「三十万」も、
「多大な犠牲者」という意味で
書かれたものだったと思われる。
しかし、記念館が建てられ、「三
十万」と書かれた時点で、「犠牲
者数三十万人もの虐殺があった
こと」は、政治的な事実となっ
てしまったのである。そして、
それが対日外交の切り札になる
ことに中国は気づいた。
 円借款など、ここぞというと
きに中国側は「南京大虐殺」を
持ち出す。そうすれば、日本が
何も言えなくなることを悟った
のだ。いわば「伝家の宝刀」で
ある。
 証言者の一人、当時企画院事
務官岡田芳政氏がこのようなこ
とを語っている。
「南京事件というのは、中国が
それまでやってきた宣伝戦を戦
後も行なったまでのことです。
日本は宣伝戦に負けたのです。
それに、中国人というのは面子
を重んずる国ですから、いった
ん言ったことを取り消すことは
絶対ありません。宣伝に負けた
とあっさり兜を脱ぐことです。
それしかありません」
 岡田氏は当時中国攻略の謀略
担当、中国と中国人を最も知り
抜いていた一人だといえよう。
そして中国を愛し、証言当時、
日中友好のために飛び回ってい
た。しかし、氏が言うように日
本は兜を脱いで、いつまでたっ
ても「南京」という札を出され
続けるしかないのだろうか。
 私はそうは思わない。199
8年に江沢民主席が来日した際、
ODAなど日本側の中国に対す
る援助について評価はしたもの
の感謝の意は表さず、それどこ
ろか台湾の独立を認めないこと
と、過去の歴史認識に対する謝
罪を共同宣言に盛り込むよう日
本側に強いた。しかし故小渕首
相はこれに毅然とした態度を見
せ、日本の姿勢を貫いたのだっ
た。
 その後の中国側の対応は軟化
し、日本側の援助に感謝すると
表明し、態度が変わったではな
いか。詳しい調査もせずに「謝
れば済む」という日本的対応は、
いつまでたっても腰が引けたま
まだ。日本側が毅然とした態度
を積み重ね、中国側の態度を変
えていくしかない。

98年11月、毅然とした態度で江沢民主席に対し、共同宣言の署名を拒否した小渕首相。