小学館「SAPIO」 2002/02/27号 pp.79-81


検証 ■ 告発本を書いたティンパーリーは何と国民党の広報活動員だった
「南京大虐殺」という名の虚構は
国民党による「対外情報戦」の産物だ

立命館大学文学部教授 北村稔 KITAMURA Minoru   [PROFILE] 1948年生まれ。京都大学文学部鵜卒。三重大学助教授を経て、現在立命館大学文学部教授。選考は中国現代史。著書に『第一次国共合作の研究――現代中国を形成した二大勢力の出現』(岩波書店)、『アジアの歴史』(法律文化社・共著)など。昨年11月に南京大虐殺に関する資料を検証した『南京事件の探求』(文春新書)を上梓。

 日本の対中外交が弱腰なのも、
過度に中国を擁護する人々が数
多く存在するのも、その理由は
日本が過去に犯した「戦争責任」
とそれに伴う中国人への同情に
ある。中国政府が何かというと
過去の侵略行為を持ち出すのは、
これが日本人のナイーブさにつ
け込むのに最高の「外交カード」
だからだ。
 その「日本の中国侵略」の象
徴として中国人が位置づけてい
るのが「南京事件」である。
 これまで多くの論争が戦わさ
れたが、虐殺が「あった」「なかっ
た」をめぐってすでに神学論争
にも似た状況にある。そんな中、
昨年末、立命館大学文学部教授
の北村稔氏が、『南京事件の探
究』を出版、大きな注目を集め
た。様々な証拠資料を丹念に検
証した結果、事件の原点に重大
な疑惑が生じているというのだ。
「南京事件」を巡る日本国内で
の論争は、1971年に本多勝
一氏が朝日新聞紙上で口火を切
り、72年に鈴木明氏が『南京大
虐殺のまぼろし』で、これに反
論して以来、実に30年以上もの
間続けられている。各論者は主
張の共通点から「虐殺派」「まぼ
ろし派」「中間派」の3つに分類
されるが、それぞれの立場から
次々に新たな「証拠」や事実解
釈の提示が行なわれ、論争は深
化してきた。
 だが私には、「虐殺派」の人々
は始めから「南京事件」の存在
を疑うべきではないものとして
捉え、虐殺を否定する「まぼろ
し派」の人々は逆に否定すべき
ものとして捉えているように思
われる。これは既に「神学論争」
に近く、歴史事実を探求する歴
史学の論争からは外れているの
ではないだろうか。
 そこで私は歴史研究の基本に
立ち返り「南京事件」を確定す
るに至った各種資料を検証する
ことにした。「南京事件」を確定
したのは南京と東京の戦犯裁判
の判決書である。それゆえ、判
決書が証拠として採用した欧米
人や中国人の書証や証言を検証
し、判決毒が「南京事件」とし
て断罪した論理に整合性がある
かを検討することで、「大虐殺が
あった」とする認識がどのよう
な経緯から出現したかを確認す
ることにした。
 そもそも「南京事件」とは、
1937年12月13日に中華民国
国民政府の首都であった南京を
日本軍が制圧して以降、翌38年
2月下旬までの3か月にわたる
日本軍の軍事占領下に起こった
とされる中国人虐殺事件を指す。
日本では「南京大虐殺」とも言
われるこの事件が「歴史的事実」
として確定されたのは、第2次
大戦後に開かれた軍事法廷での
判決による。戦時中の1944
年3月に連合国側は既に連合国

南京の揚子江岸に山をなす死体。揚子江岸では捕虜の処刑が行なわれ、対岸に逃れようとした兵士を追撃している為に多くの死体があり、これらを虐殺死体とするのは疑問だ。(写真:毎日新聞社)

戦争犯罪審査委員会を設立して
おり、戦後は東京とドイツ・ニ
ュールンベルクに国際軍事法廷
が、世界各地にも軍事法廷が設
置されたが、南京と東京の軍事
法廷において「南京事件」は「大
虐殺」として断罪された。
 この判決が「される上で重要
な役割を担ったのが、日本軍の
残虐行為を記録した『WHAT
WAR MEANS』という書
物である。
「南京事件」を最初に世界に知
らしめたとされるこの書は、日
本軍の南京占領当時に中国に駐
在していた『マンチェスター・
ガーディアン』紙の特派員、H・
J・ティンパーリーが執筆し、
1938年に発行されたものだ。
日本側でも中国側でもなく、第
三者の欧米人ジャーナリストと
いう中立的立場から日本軍の南
京占領時の蛮行を告発したもの
として、戦後の軍事法廷での連
合国側の対日犯罪告発の骨子と
なり、1946年の南京の裁判
では判決書の文面にも特筆され
ている。東京裁判では書名は登
場しないものの、判決書に記さ
れた書証や証言者は『WHAT
WAR MEANS』に登場し
ているもので、裁判の内容を見
る限り、連合国側がこの書に強
い影響を受けて裁判の枠組みを
作り上げたことは間違いない。
 そこで、私は先ずこの「WH
AT WAR MEANS』の
原著を手に入れ、著者ティンパ
ーリーの足跡を探ることで、こ
の書が書かれた背景を探ること
にした。

理解する国際友人を
捜して我々の代弁者に

 結論から言えば、「南京事件」
を確定させた根幹、中国側が大
虐殺の動かぬ証拠だとするティ
ンパーリーのこの書は、第三者
による中立的立場からの著作で
はない。国民党の戦時外交戦略
として、日本軍の非道ぶりを世
界に訴えるために執筆されたも
のなのである。
 これまでの「南京事件」研究
では、『WHAT WAR ME
ANS』の中身については議論
が戦わされてきたものの、彼自
身の素性についてはほとんど考
察されないできた。「オーストラ
リア国籍を持つ、マンチェスタ
ー・ガーディアン特派員」とい
う共通認識はあるが、彼がどう
いう経緯でこの本を書いたのか
という動機は本の「前言」に記
された「日本軍の中国人市民に
対する暴行を伝える電報が、上
海電報局の日本人検閲官に差し
止められたから」という理由が
信じられてきていた。
 その隠された素性を調べるた
めに、私が最初に注目したのは、
原著の赤色のハードカバーに刻
まれていた「LEFT B00
K CLUB」という表記だっ
た。「LEFT BOOK CL
UB」とは1936年にイギリ
スで成立した左翼知識人の団体
で、背景にはイギリス共産党や
コミンテルンの存在がある。こ
の事実から「ティンパーリーは
一介の新聞記者ではなく、何ら
かの背後関係を持っている人物
ではないか」と推測し、イギリ
スを中心に当時の人名録などに
あたってみると、中国社会科学
出版社から発行されている『近
代来華外国人名辞典」の中に彼
の名前があった。
「第1次大戦後来華、ロイター
社駐北京記者、後マンチェスタ
ー・ガーディアン及びUP駐北
京記者。1937年盧溝橋事件
後、国民党政府により欧米に派
遣され宣伝工作に従事、続いて
国民党中央宣伝部顧問に就任し
た」とそこにはある。つまり、
同書によれば、ティンパーリー
は国民党の宣伝活動に従事する
「広報活動員」だったというこ
とになる。
 この事実を裏付けるために、
次に私は当時の国民政府の対外
宣伝工作の実態を中国側の資料
から読み解くことにした。ティ
ンパーリーが中央宣伝部顧問ま
で務めた人物であれば、必ず当
時の資料のどこかに彼に関する
記述があるはずだと考えたのだ。
これを知るための資料として、
中国から重慶抗戦叢書編纂委員
会編『抗戦時期重慶的対外交往』
が、台湾からは王凌霄『中国国
民党新聞政策之研究』という2
つの研究書が発行されているこ
とを突き止め、それにより日中
戦争当時の国民党の対外宣伝の
実態が明らかになった。そして、
王凌霄の書の中には、国民党中
央宣伝部で国際宣伝処長を務め
た曾虚白の自伝が引用されてい
た。
 この曾虚白の自伝は1988
年に台湾で出版されており、早
速台湾の友人からこの書を手に
入れ紐解いて見ると、そこには
ティンパーリーやスマイス(当
時、南京の金陵大学教授だった
アメリカ人。南京市内の死者数
に関する「スマイス報告」を記
した。東京裁判でも証言者とし
て出廷)と国民党国際宣伝処と
の関係が明確に記されていたの
だ。
「我々は目下の国際宣伝におい
ては中国人は絶対に顔を出すべ
きではなく、我々の抗戦の真相
と政策を理解する国際友人を捜
して我々の代弁者になってもら
わねばならないと決定した。テ
ィンパーリーは理想的人選であ
った。かくして我々は手始めに、

1938年の南京郊外。計画的大虐殺が行なわれたとされる時期だが、それとは矛盾した風景。事実、当時の様子を記した資料には「大虐殺」にあたる事件は見受けられない。(写真:毎日新聞社)

金を使ってティンパーリー本人
とティンパーリー経由でスマイ
スに依頼して、日本軍の南京大
虐殺の目撃記録として二冊の本
を書いてもらい、印刷し発行す
ることを決定した」
 つまり、虐殺が行なわれた証
拠とされた『WHAT WAR
MEANS』も、大量の死体が
存在した証拠とされた「スマイ
ス報告」も、国民党の外交戦略
に基づいて故意に歪められた情
報であり、裁判において「大虐
殺」行為を立証するに足るもの
ではなかったのだ。

日本の外交下手が
「大虐殺」を創り出した

 軍事法廷による判決で確定さ
れた「南京事件」の概要は「6
〜7週間にわたる計画的な大虐
殺」「南京での残虐行為は各国か
ら批判の声があがっていた」「日
本軍による放火・略奪・暴行の
蔓延」「死者は10万人から30万
人」という4点である。
 当時の南京に関しては193
9年に国民政府から出版された
「南京安全区襠案』という報告
書があり、そこには日本軍によ
る様々な行為についての告発、
報告が記されている。その内容
は、日本軍兵士による放火・略
奪・強姦・殺人と、民間人にな
りすましていた中国人兵士を逮
捕し集団処刑したことの2種類
に大別できる。
 このうち兵士による犯罪行為
は報告書を読む限り決して計画
的に行なわれているものではな
く、告発している欧米人たちも、
むしろその無秩序ぶりを批判こ
そすれ、それが計画的であると
の判断は下していない。また、
集団処刑が虐殺にあたるか否か
はともかく、処刑自体は12月中
には終了しており、「6〜7週間
にわたる計画的大虐殺」にはあ
たらない.しかも、38年1月に
は日本軍が中国人住民に米を供
給していたことを第三者の外国
人が書き残している。
 また、国民政府の情報宣伝活
動における公式文書である『英
文中国年鑑』1939年版には、
欧米で行なわれた中国への支援
活動とそれに伴う各国の対日批
判運動などについての報告が記
載されているが、そこには南京
での「大虐殺」に関して抗議行
動が行なわれたという報告は無
い。仮に判決で言われたような
長期にわたる大虐殺が行なわれ
ていたのだとすれば、他の欧米
メディアによる告発があって然
るべきだし、各国政府も何らか
のリアクションを取ったはずだ。
それが何も無いということは、
第三者として監視の役目を負っ
ていた欧米側に「南京で大虐殺
があった」という共通認識は存
在しなかったといえる。そもそ
も、国民政府自体が日本軍の南
京占領直後に南京での日本軍の
蛮行を批判して以降、日中戦争
中には「南京事件」に関する告
発をしておらず、「大虐殺」は戦
後に作りあげられたと考える方
が自然だ。
 確かに、個々のレベルで南京
住民に対する略奪・強姦・殺人
等の日本人兵士による犯罪行為
はあり、それは告発されて当然
である。だが、これを9年後の
裁判で「世界中が非難した6〜
7週間にわたる計画的大虐殺」
とするのは事実誤認であり、捏
造といわざるを得ない。
 今まで述べてきた以外にも日
本軍占領当時の南京の事情を伝
える各種の英文資料があるが、
そこには大虐殺があったことを
裏付けるようなものは見当たら
ない。「30万人」という数字につ
いても、詳細はここでは割愛す
るが、数字が一人歩きした経緯
は説明できる。ゆえに私は「南
京大虐殺」は虚構であると考え
ている。
 だが、だからといって、日本
人が「これは虚構である」と言
うだけでは問題は一向に解決し
ないだろう。
 私は長年、国共合作の研究を
してきたが、中国人はたとえ嘘
だとわかっていても政治的に意
味があると考えれば主張し続け
るメンタリティーを持っている。
彼等の政治的パフォーマンスは
伝統であり、文化でもある。そ
こを理解することなく「嘘だ、
嘘だ」と言ったところで水掛け
論にしかならず、発言に怒るだ
けでは相手のペースに乗せられ
ることにしかならない。
 彼等の主張に対しては、その
背後にある政治的意図を冷静に
理解し、丁寧に反論していかね
ばならない。
 また、「南京大虐殺」という虚
構が成立してしまった背景には、
日本人の外交下手という側面も
ある。南京占領に対する国民政
府と国際世論の反応を予想し、
無用な反発を押さえ込むための
説明の論理と施策を外交戦略の
一環として全く準備していなか
ったのである。それゆえ、「南京
大虐殺」は、いわば「説明責任」
の欠如から生み出された鬼子で
ある。
 今日の中国に対する外交も過
去の出来事に対する、日本人の
「説明責任」意識の低さに基づ
いている。欧米語において「責
任をとる」とは、広義には「申
し開きをする」ことを意味して
いる。事実を確認し何故そのよ
うな事態に至ったのかを先ず相
手に説明するのである。物質的
な、或いは精神的な償いの必要
が生じるのは、相手方との議論
を通じてであることを肝に銘じ
るべきである。この認識がない
限り、いつまでたっても日本は
真の「外交」が出来ない国とし
て、中国を始め世界からなめら
れ続けるに違いない。
 田中真紀子前外相と外務省と
の最近のゴタゴタは、「説明責
任」を含む戦略の欠如という日
本人の特性が何一つ変わってな
いことを再認識させた。外務省
改革を実行するには、長期的な
視野に立つ戦略を持って当たる
必要がある。誠を以って臨めば
策など不要と前外相は邁進し、
自滅してしまった。残念なこと
である。

南京大虐殺記念館で学生は虚構を学ばされている。(写真:AFP=時事)