大東亜戦争「敗因」の検証
…… 「帝国海軍善玉論」の虚構
佐藤晃著 (芙蓉書房出版)

 米国海軍長官ノックスが言った。
「日本軍とは近代戦を全く理解してないか、近代戦を戦う資格のない軍隊である」
 太平洋艦隊司令長官ニミッツが言った。
「日本は戦闘の先っぽではアメリカに勝ったが、戦略では無為にして負けた」
 そしてニミッツはこうも言っている。
「古今の歴史において、主要な武器が、その真の潜在能力を少しも把握されずに使用されたという稀有の例を求めるとすれば、それはまさに第二次大戦における日本潜水艦の場合である」
 南太平洋方面海軍司令官ハルゼーは言った。
心配するな。日本人は、勝ったと思ったら引揚げて行く。追撃してきはせぬ
 もちろん、これらは全て帝国海軍に対する批評である。

 そして、敗戦後日本海軍が設けた組織に「史実調査部」なるものがある。連合国が終戦直後はじめた作戦の質問に対する、調査及び解答をするために設置した部である。メンバーは富岡定俊(軍令部作戦部長)を部長とし、以下軍令部・聯合艦隊の参謀からなる一〇余名である。
この史実調査部のメンバーに、この仕事を通じて知りあった米軍海軍士官のみならず、GHQの軍人までもが一様に聞く質問があった。すなわち次の質問である。

日本海軍ばなぜ同じ手を繰返して、そのつど叩きのめされたのか
 そしてこうも言われた。
日本海軍は、飛行機を向うみずに消費した。あれではどれほどあっても、足りないはずだ」
 また、このようなこともあった。
 この史実調査部のメンバーで、その後GHQ情報部戦史室調査員として、太平洋戦史編集に従軍した者が.その仕事を通じて知った驚くべき事実があった。
 セブ島付近の海上に不時着した二式大艇搭乗の、福留繁聯合艦隊参謀長、山本祐二同参謀を含む一〇名が米軍ゲリラの捕虜となり、陸軍部隊に救出された、いわゆる「海軍乙事件」(昭和十九年三月三十一日)についてである。当時海軍は、一行が所持していた機密文書が敵の手に渡ったかどうかについて、深い詮議もせずに不問に付していた。史実調査部のメンバーは、情報部保管の日本からの押収資料のなかに、「海軍乙事件」の一行が押収された機密資料「Z作戦計画」と「Z作戦指導腹案」の紛れもない現物を発見し、椅子から飛びあがらんばかりに驚いた。一切の手の内を敵に知られ、しかもそれに気づかずに戦闘を続けた、ということである。

 以上について.注釈を述べてみよう。
 まず第一に、ニミッツのいう戦略について。
 帝国海軍の辞書には「戦略」という言葉はない。その唯一の作戦マニュアルである『海戦要務令』に、一言「戦略とは、敵と離隔して我兵力を運用する兵術をいう』とある。この「離隔して云々」とは大局的にみるという類のものではなく、出港して戦場までの航海等を含む兵術の類のものである。
 では.『海戦要務令』に記載されてあるものは何かといえばすなわち、その根底にあるものは、西太平洋に米艦隊主力を迎え撃ち、艦隊決戦で勝つ、というものである。終始一貫して、西太平洋における戦艦部隊を主体とする独立した艦隊戦闘、それしか『海戦要務令』の対象に置かれていない。航空部隊も潜水艦部隊もそれに対する、支援協力の域に留め置かれたままである。
 要するに、独伊と協力する全世界的大戦略はおろか、太平洋に散在する島々の争奪戦を部隊とする戦略作戦など、帝国海軍の考えたこともない戦闘方式なのである。
 帝国海軍のエリート達は、艦隊戦闘の方式しか研究したことはなかったのである。
 ニミッツが言うように、「戦略では無為にして負け」て当然なのである。

 第二に、同じくニミッツの言う「その潜在能力を少しも把握しなかった」潜水艦戦闘に触れてみよう。
 『海戦要務令』には、潜水艦による通商破壊戦にも.対潜水艦作戦にも触れられていない。したがってその訓練の経験もなく、現実に開戦後の我潜水艦は一度も米国輸送船を攻撃したこともなく、我艦艇は敵の潜水艦の攻撃から輸送船を護ることにも無力であった。西太平洋における戦艦を主体とする艦隊決戦の思想の前には、我方の輸送の確保も敵の輸送破壊も、念頭にないのである。ニミッツの不思議がるとおり、稀有の例そのものである。
 第三に、史実調査部のメンバーが椅子から飛びあがるほど驚いた「海軍乙事件」に触れてみよう。
 一旦敵の手に落ちた機密文書が.帰ってきたからといって安心してしまうことにすら、信じ難いほどの情報的欠陥である。しかるに、消えてなくなった最重要作戦計画書に不審も抱かずに、戦闘を続けるということがあり得ることであろうか。
 ことの序での「海軍甲事件」に触れてみよう。山本五十六は暗号を解読されて敵の迎撃にあって撃墜された。開戦以来、真珠湾を除いて帝国海軍が何かをやろうとすると必ず敵の妨害にあってきた。そして聯合艦隊司令長官の遭難も、その行動を読まれていた疑いが極めて濃厚である。にもかかわらず海軍は、暗号を解読されていることに一点の疑問もなく敗戦まで、解読されっぱなしで戦闘を続けた。「海軍乙事件」といい、暗号被解読といい、情報感覚としてのそのお粗末さは、口にも筆にも表現するすべがない。
 第四に、これまでのまとめを述べておこう。
 戦闘能力がなくて、攻防両面の輸送作戦に無知で、そして絶望的情報能力の欠陥。戦略・輸送・情報にこれほど極端な欠陥を持つ軍隊であってみれば、ノックス海軍長官の「近代戦を戦う資格のない軍隊」との評も、敢えて酷評というわけにもゆくまい。
 そして以下に補足するものは、帝国海軍固有の欠陥である。
 まず、ハルゼーの言う「日本軍は勝っても追撃してこない」に触れてみよう。これが案外、致命的敗戦原因なのである。
 日本艦隊に「艦隊保全主義」という牢固たる思想がある。戦艦部隊による艦隊決戦の日まで、なるべく戦力を損なわずに残しておこう、という思想である。味方の戦力を損なうまいという思想で、長年訓練されていると、行き着く先は臆病になる。
 全滅を賭して(山本五十六記)断行したはずの真珠湾攻撃も、その第一撃に成功するや、真珠湾の基地機能壊滅の好機を捨てて逃げて帰る。敵撃滅の目的で殴り込んだ第一次ソロモン海戦も、護衛艦隊との戦闘に圧勝すると、肝腎の輸送船団には手もつけず逃げて帰る。レイテ沖海戦では、せっかくレイテ湾の敵の中核に突入した栗田部隊が、謎の北転とかいう敵前逃亡で全作戦を崩壊させる、等々あげて数えられぬほど、大事な戦機を捨てて逃げ帰った例がある。いずれも勝敗の転機に繋がる重大局面において犯した大罪である。ハルゼーからは完全に正体を見透かされていた。
 最後に「日本海軍はなぜ同じ手を繰返して、そのつど叩きのめされたのか」という米軍の質問に触れよう。
 その質問に軍令部・聯合艦隊の俊才達がいかに答えたのか、それがわからない。度重なる質問であったようであるが、その返答を聞いたことがない。しかし、同じ手を繰返した愚戦といえば、ラバウル海軍航空隊のガダルカナル・ソロモン攻撃がまず、頭に浮かぶ。
 当時の海軍が、その戦闘結果に関して明確に把握していたことは、昭和十七年八月にはじまり、十九年早々のラバウルからの撤退までの味方の損害である。すなわち、飛行機八千機・搭乗員五千余といわれる大損害である。そしてこの結果、戦闘可能搭乗員が壊滅的打撃を受けたことである。
 一方、把握してなかったことは、敵に与えた損害である。戦後判明したところによると、敵の損害はかすり傷同然であった。
 当時海軍は、「軍艦マーチ」で勝った勝ったと大はしゃぎしていた。誇大発表でなく、勝ったと思っていたのである。攻撃隊の指揮官の報告を真に受けるとそうなる。海軍中枢は、本当に勝ったと思っていたから、その愚戦をとめどなく続けたのである。
 海軍航空隊の指揮官達の戦果確認能力が、まるでなってなかったことに中枢部が気づかなかった、ということである。
 この戦果誤認もまた致命的敗戦原因である。史実調査部の者達がその戦果の大嘘に当時気づいていたか否か。気づいておれば、連合軍士官の質問に答えることは容易であっただろう。否、恥かしくて返答に窮したかもしれない。

 戦闘能力・輸送能力・情報能力、そしてさらに艦隊保全主義と信じられない戦果誤認、どれ一つとっても、重大な敗戦要因である。ところが、帝国海軍にはそれが全て揃っていたのである。太平洋方面の戦闘とは、戦闘の仕方を知らない者より始末の悪いリーダー達の戦争指導によって戦われた戦闘なのである。

 かくも明瞭かつ重要な敗戦原因が、いまだに国民の前に知らされてない。その第一の原因はマスコミにある。
 戦前・戦中、我国をもっとも戦争に駆り立てたものは、陸軍でもなければ、政府でもない。支那事変のごときは、陸軍参謀本部が唯一最大の事変拡大阻止派であった。極東ソ連軍の急膨張の時に、支那で事を構えるなど参謀本部の容認できるところではない。
 それを、事変拡大、そして近衛首相の「蒋政権を相手にせず」声明に駆り立てたものは、マスコミの暴支膺懲(ようちょう)の大合唱である。もちろん、米英撃滅の大合唱も戦前からオクターブを高めていた。
 戦後、マスコミがGHQの断罪を逃れ、国民の糾弾を避けるためにとった手段は、東京裁判史観のお先棒を必死に担ぐことであった。東京裁判史観とは、日本唯一悪玉論であり、陸軍唯一悪玉論に通じるものである。
 マスコミは保身のため、日本と陸軍を唯一悪玉にして、それを隠れ蓑にして、身を全うしてきた。
自存自衛の為なら、祖国をも唯一の悪玉にして、顧ることを知らないマスコミである。日本の悪を全て陸軍に被せることが、そのための格好の手段とあらば、ことの真偽など問うところではない。
 かくも明瞭な敗戦原因が曖昧にされてきた理由は、太平洋方面の戦闘まで、その責任を海軍より陸軍に問いたいマスコミの、保身のための画策によるものである。
 冒頭にあげた米軍提督達の帝国海軍に対する酷評もマスコミの手にかかると「日本海軍は」でなく「日本軍は」となる。戦果発表の大嘘についても「海軍の」とならずに「大本営の」となる。暗号解読についても「海軍の暗号は」とならずに、戦後米国調査団シンコフ大佐以下を「完璧」と感嘆させた陸軍暗号まで含めて「日本軍の暗号は全て米軍に解読されていた」となるのである。悪いことは全て、無関係のことも含めて、陸軍を巻添えにする、そのマスコミの手法が敗戦原因を曖昧にしてしまったのである。
 そして、これに左翼分子が便乗した。コミンテルンの一九三二(昭和七)年テーゼは唯一日本悪玉論とイコールだそうである。
 全マスコミと左翼主義者とそして日教組が揃って「日本が悪い。陸軍が悪い。東条が悪い」と騒ぎ立てれば、大抵の日本人はマインドコントロールされてしまう。開戦までの経緯、敗戦の過程、それへの認識が狂ってしまうのは当然かもしれない。
 敗戦原因を曖昧にした第二の原因は、東京裁判史観の海軍善玉論の世相に便乗した海軍軍人達にある。彼等は、争って破廉恥な戦記物を世に氾濫させた。「海軍は勇戦敢闘したが敵の生産力に遂に及ばなかった。米国と戦争を始めたのが、そもそもの間違いであった」という類のものである。当然マスコミが開戦責任を東条英機に持っていくことは熟知している。
 敗戦の原因・過程ともに、国民の目にはますます訳の分からないものになってしまった。
 戦後五十年、やっと海軍軍人達が自己批判をはじめた。しかし、海軍善玉論の座り心地には未練が残るようである。自己批判も何かと及び腰である。そして、海軍の戦略不在に関しては、それを認めつつも、その事の重大性に思いいたっていない。戦略的過失に対する反省が全く不足しているのである。
 だがこれは致し方ないことというべきかもしれない。戦時中ですら戦略研究を一切したことのない人達である。今にして、帝国海軍が犯した戦略的誤りに対する適確な判断を、彼等に求めることの方が無理というべきだろう。
 最後に一つ述べておこう。「私は戦争に反対だった」という自薦他薦の元提督が戦後になって続出した。「米国と戦って勝てるはずがない、と言った」という類のものである。
 考えてもみよう。米国とのただ一回の主力艦同士の艦隊決戦のことばかり研究し、戦略的知識もない人達、国力も考えずに役にも立たぬ大和・武蔵・信濃・紀伊の巨大戦艦を建造した人達、国家総力戦のことなど考えたことのない人達、そのような海軍の提督達が、あの戦争の勝敗の予想をするなど可能であるか。
 素人の競馬予想より愚劣であり、無責任かつ不遜であるばかりでなく、国家に対する犯罪行為ではないか。
 海軍大将である外相と駐米大使が、筒抜けの暗号電報で、そのような海軍の内幕を、やりとりしたか否かまでは知らない。
 しかし、あの大艦隊が戦争抑止力として全く機能せず、米国からハル・ノートを突きつけられて、戦争か降伏かと高飛車にでられたのも、案外したり顔の反戦提督達の敗戦予想言動にある、と私には思えるのである。
 米国に、高飛車に出てこいと告げているようなものではないか。反戦提督達の軽率な言動がなければ、あの大艦隊を戦争抑止力に利用して、日米和平の道を模索することは、はるかに可能であったのではあるまいか。
 時しも、世界制覇を企図するソ連の大軍事力は、満州から支那を狙い、支那内部には毛沢東の勢力が台頭している。日露戦争前と同様に、戦後の冷戦時と同様に、当時の極東情勢には日米協力の必然性が十二分に存在していたはずである。

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